主のもとに来なさい 

5月28日 へブル13章15~17節
増田清世師

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないように」と、ヘブル書の著者は語ります。私たちの国籍は天の都です。自分の十字架を背負いキリストに従う歩みだけが「永遠の都」に通じる道です。後に来ようとしている都に希望を抱いています。
イエス様の御もとに近づき、神を賛美し、善を行ない、特に持ち物を分け与える恵みをもって、神に感謝できるのです。

1.賛美のいけにえ
 神様はまず第1に賛美のいけにえを喜ばれます。罪に汚れ、自己中心的な私たちにはできがたいことですが、15節で「キリストを通して絶えず神に賛美を捧げるように」とあります。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」神が私のそばにおられるという「臨在感」、その信仰的意識を持つことです。この臨在感が主を恐れることです。
私たちはこの世と神の支配という2つの世界に取り巻かれています。
2つの世界は、私たちに働きかけ、影響を与え、支配しようとしてせめぎあっています。この世は、神を認めず、神を恐れません。神を崇めることも神に聞くこともないのです。神に従うことなく、神に感謝することなく、神の価値も認めません。それがこの世の実態です。
聖書は「この世と調子を合わせてはいけません。」と警告します(ローマ12:2)。
私たちの関心と心の思いがどこを向いているかが問われています。
パウロは、そのような生き方をする人々に涙ながらに訴えます。
「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです」ピリピ3:18,19。
私たちが神の御心に波長を合わせた生き方に変えるため、聖書は「心の一身によって自分を変えるように」と勧めます。
この世の波長から免れるのはキリストを通し、キリストの助けにより可能なのです。主の助けを祈り、求めながら、私たちは賛美に溢れた生き方を選び取っていきたいと思うのです。
  
2.善を行うこと
第2のいけにえは、「善を行う」ことが勧められています。
これは親切、愛のわざです。私たちは自らの心の思いと、言葉と生活が、主に喜ばれるものでありたいと願います。愛のわざを必要としている人に快く実践できるように備えていたいと思います。
「良きサマリヤ人」(ルカ10章)の譬話は、私たちの良い模範です。
あの良きサマリヤ人は自分の計画を持っていたのですが、突発的な事柄に対し「心の備え」がありました。ですから傷ついた旅人を見ては、自分のことを脇に置き、この旅人に近づき、適切な対応と処置ができました。
ところが祭司とレビ人は、それができず、通り過ぎて行きました。心の備えがなかったのです。私たちの「心がどこを向いているか」が大切です。神に向っているか、自己中心となっているかです。
神に向っていますと、私の小さな愛のわざを必要としている人はいないか。―
いつも愛の配慮をもって祈り、探し、心が備えられ、いざという時のために心配りと、準備が整っていたいと思うのです。
私たちの心がいつも準備が整って、いつでもすぐに成すことができる、それを実践できる状態にいつも生きていることは実に麗しいことです。
「善を行う」といういけにえを、主は私たちに期待しておられるのです。

3.持ち物を人に分ける
第3番目のいけにえは、「持ち物を人に分ける」ことです。ギリシャ語では「コイノニア」です。「交わり、共有する、物事を分かち合う」という意味です。
神との交わり、他の人との交わり、縦の関係と横の関係、この関係を成り立たせてくださるのがキリストの十字架です。
イエス・キリストがご自分のいのちまでも捨てて、私たちに与え尽くしてくださったゆえに、私たちは「神と和解」ができ、また、他の人と和解、自分とも和解ができるようになりました。
このイエス様の愛に応えて、私たちも喜んで持ち物を分け与えるという「いけにえを捧げる」恵みを体験できるのです。分けるべき持ち物は、目に見えるもの、目に見えないものがあります。その一つは、時間です。
自分の為ならどんなに忙しくても、時間をとれます。他の人のためとなると急に煩わしさを感じ、時間を割くことがおっくうになるのです。
私たちは何かを犠牲にしなければ時間を生み出せません。ですから「いけにえ」と言われるのです。いけにえは、生きた備えもの、生きた犠牲です。
犠牲なしには、どんなものも捧げることはできません。
私たちはそれぞれ多忙の中にいます。その中で貴重な時間を、主の愛に応えて主のため、人のために用いてまいりましょう。
教会の奉仕には、表に見える奉仕、また表に見えない影の奉仕があります。どちらもすばらしい主に捧げるいけにえです。人の見えないところでの祈り、心配りを主はよくご存じです。
神様は、私たち一人一人に様々な賜物と才能を与えてくださっています。賜物と才能は違うものです。才能は生まれつき与えられた特別なものです。
賜物は、イエス様を信じることで、聖霊がその人の内に豊かに臨まれ、その人を用いようとされる「神の愛の実」です。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」1ペテロ4:10
自分の賜物を発見して、それを神のため他の人のため用いると、あなたの人生に生き甲斐が発見できることでしょう。
自分の持ち物と財を主のために、他の人のために積極的に用いていきましょう。
イエス様が「神にも仕え、富にも使えるということはできない」と語ります。
お金の用い方は、その人の本当の姿を映し出します。お金の使い方で何を、だれを重んじ、尊んでいるかがはっきりします。
自分のためには惜しげもなくお金を使うのに、「捧げる」ことになると急に財布のひもが固くなるのです。金銭を愛する危険な悪の根であり、御言葉による矯正が必要です。自分の持ち物、自分の時間、自分の賜物、自分の財、自分の才能・・と自分の善きものを惜しみなく分けること、シエアすることで熱心にならせていただきたいと思います。
全ては神様から与えられたものであり、自分のものは何一つないのです。
最後に多くの失敗とつまずきを経験した主の弟子ペテロの励ましのことば、忠告を見たいと思います。1ペテロ2:4,5
「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」
私たちも主に喜ばれる信仰者となってまいりましょう。
そのための大切なことが3つ心に覚えることができました。
「讃美」を絶えずささげる、「善を行う」ことを忘れない、「持ち物を喜んで分け与える」こと この3つです。
ペテロは、これが「イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえ」であると語っているのです。
私たちは、この3つを神の愛への応答として「キリストを通して実行できる」のです。自分の熱心、自分の努力、自分の力によることではありません。キリストに頼りながら、主の憐みによって、主に真剣に祈り続けて、主に助けて頂いてできることです。これが、主のもとに近づき 主に喜ばれる信仰者の姿です。

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