再び来られる栄光の主

黙示録1:7~9 増田清世師

6月10日

今朝は黙示録の第3回目の学びです。

既に学びましたように、使徒ヨハネがこの書を記したのは、紀元90年頃と言われています。ローマ皇帝ドミテアヌスの治世、初代教会が激しい迫害を受けた時代であります。

使徒ヨハネはその信仰の故にパトモス島に流刑されました。

ヨハネの黙示録は、その時、神からキリストによって、御使いを通して、ヨハネに伝えられ

アジアにある7つの教会に書き送られた手紙であります。またすべての時代の、全世界の教会宛であり、私たちへの手紙でもあります。

その手紙は、初代教会の礼拝の中で、説教を聞くように読まれました。聞いた人たちは、確信と忍耐と慰めを受け、迫害の中でも、希望を持って進むことができたのです。

ヨハネの黙示録は単に将来に対する好奇心を満足させようとするものではありません。現代に生きる私たちにとっても励ましの書です。

いつの時代でも、現実の状況にだけ目を奪われて、『どうなるのか・・・』といくら考えても、本当の答えを得るのは難しいことです。

私たちの個人の生活、教会、社会、国のことでも、天地万物の創造者、支配者、所有者なる唯一の神との関係で見なければ、見えないからであります。

神の言葉である聖書の光に、照らして見るとき、現状や将来が見えて来るものです。

難しい書ですが、今朝も、聖霊の助けによって、みことばに聴きたいと思います。私たちも励ましを受けて、現実の歩みに備えたいと思います。

 

1.キリストの現れのとき

2.地上の民の光景

3.はじめであり、終わりである方

 

1. キリストの現れのとき

私たちを愛し、十字架上で私たちの罪のために犠牲となられた主イエス・キリストが死者の中から甦られ、もう一度来られる、「再臨の主の姿」が具体的に記されています。

「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。 」(7節)

再臨の主イエス・キリストは、「雲にのって来られる」との、具体的描写であります。

「雲」とは、聖書では「栄光」を現わす言葉です。主イエス様は、「栄光に満ちて」再び来られるのです。礼拝において頌栄を捧げ、ほめたたえるお方です。私たちが、過去も現在も未来も、私の生活全部をお委ねし、信頼してお従いするのは、このお方なのです。イエス様が再臨されるとき、全てが更新され、全てに主の解決を見るのです。罪深い人間が味わってきた悩み、苦しみ、悲しみは「主にある喜び」へと変えられます。

再臨の主の確かな約束と希望は、私たちがこの地上生涯を信仰と忍耐をもって歩む力であります。礼拝を信仰生活の最優先とするのは、捧げる礼拝のただ中に、栄光の主の祝福が満ちているからです。

主が、再び来られる時、すべての力と栄光を身に帯びておられます。イエス様御自身も証言しています。 「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。その時、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」。マルコ13章26節

今を生きる私たちと、再臨の主との関係はどうでしょうか。主を待ち望む「選びの民」であるとの思いの中に生活しているでしょうか。あるいは日常生活に埋没し、「主が再び来られる」ことを、忘れているでしょうか。

使徒パウロは、愛弟子テモテに向かって勧めています。「私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。

その現れを、神はご自分の良しとする時に示してくださいます。神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主」Ⅰテモ6:14,15

私たちは主の祈りで、「国と力と栄えとはとこしえに汝のものなればなり」と、頌栄の祈りを捧げます。

再臨の主イエスは、そのようなお方として私たちを迎え入れるためにお出でくださるのです。

再臨の主イエスは、突然お出でくださるのです。栄光の主の前に立つ日が来るのです。このことは私たちが人生の歩みの中で、いつも心に留めていなければならないのです。

地上の歩みで、私たちは多くの大切なことがあります。しかし、一番大事なのは、その時、必ず、「神様の前に出る」ということであります。そのための意識と準備が大切です。人生の歩みの焦点をそこに絞り、祈りつつ、優先順位を考えていきたいと思います。

 

 

2. 地上の民の光景

再臨の主イエスが来られるとき、「地上の民はどのように主を迎えるのか」が描かれています。「すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く」

まさに主イエスの再臨の時、地上にあって主を十字架につけた者たちは、嘆き悲しみながら主のお姿を仰ぎ見ることになるのです。

7節をもう一度ご覧ください。「すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の種族はみな、彼のゆえに嘆く。・・・」。

「彼を突き刺した者」とあります。私たちも主イエス様を突き刺した罪人です。

2000年前にイエス様は、私たち罪人の罪を負い、ご自身を身代わりの犠牲として父なる神様に捧げられました。このキリストの十字架によって、私たちは神の愛を知ることができました。神に敵対していた自分の罪を悲しみ、キリストを信じ、罪の赦しを与えられたのです。そして父なる神の元に立ち帰ったのです。

私たちは、この主イエスの突き刺され、裂かれた肉体と、流された血潮によって罪赦され、「神の子」とされ、今この礼拝の場に置かれています。またそのような者になるようにと、憐れみと恵みによる、「神の招き」によって変えられました。

私の罪の身代わりとなった主は「神の小羊」です。力と栄光を身に帯びておられます。その栄光の中にあっても、私の罪のために突き刺された、傷だらけのお姿を見て、私たちは自らの罪を嘆かないではおれないでしょう。

幸いなことに、その嘆きはすでに成し遂げられた大いなる赦しの中での嘆きであります。この幸いを心に日々覚えながら、主を待ち望む者とされたのです。

さらに「嘆く人々」とは誰でしょうか。ある人々は、これは「最後まで主イエスを信じなかったため、裁きを受ける人々」のことであると、言います。

この当時、御言葉に堅く立ち激しく闘った信仰者たちを迫害し、信仰を捨てるようにと迫り、主イエスを嘲り、神に敵対した者たちがいました。その苦しみを忍び、礼拝を守り続けた信仰者たちがいたのです。

主の再臨の際には、対照的なことが起こるのです。彼らを苦しめ、迫害した人々は、「最後の裁きの座」に立ち、自分の罪を思って嘆くことになるのです。

ここに神の審判の厳かさがあります。最後まで堅く耐え忍ぶ「信仰者への励ましの言葉」です。イエス様ご自身のことばです。マタイ24章30節「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」。

その時がいつかは誰も知りません。神だけがご存じです。聖書で語られる「御言葉の指針」以外に真実はありません。

私たちは次々と押し寄せてくる目の前の問題、苦しみ、悲しみだけに目を奪われがちです。さまざまな事柄に出会う時、私たちの目を天に向けることのできる信仰者として成長したいと祈る者です。

 

 

3. はじめであり、終わりである方

アジアの7教会に、「希望の言葉」を語りかけた後、黙示録は、神御自身の権威ある言葉を記します。「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』(8節)。

「わたしはアルファであり、オメガである」と。α、ωはギリシャ語の最初と最後の文字です。主は「私が初めであり、終わりである」と語り、全能者なる神様は初めから終わりまで全部を統率しておられるお方です。全てのものを支配する力をもって、ご計画を実現し、完成するお方であると、いうことです。天地万物のすべての完成、成就をもたらすお方です。

当時の信仰者にとり、神の歴史支配は決して抽象的な事柄ではありませんでした。

実際に迫害に直面し、困難が押し寄せる歴史の中に、なぜ、どうしてとの疑問が濁流のように沸き起こります。「神はなぜ沈黙しているのか」、「神は私と共におられるのか」、「神は再び来られるのか」と不安が襲って来ます。

黙示録が書かれたのは、このように迫害に苦しむ信仰者たちを勇気づけ励ますためにです。

この確信によって、直面する迫害に、信仰を捨てることなく、「死に至るまで忠実に」闘うことができたのです。

現代もある国では、政府を批判することが許されない国家があり、厳しい統制が敷かれています。ある時には拷問と人権の侵害が行われている状況です。また、自然災害や心痛む事件が多くあります。「なぜ、神は」とのつぶやきが聞こえて来るのです。私たちの世界では、わからないことが多いのです。神の御心や神のことばが隠されているから分らないのです。しかし、それがわかるときが来るのです。

黙示とは「隠れていたものが露わにされる」ということです。黙示録は再臨の主と新しい天と新しい地を待ち望みつつ書かれたものです。それは、架空のものではなく、必ずやってくるとの神の約束であります。もう一度、みことばの証言をご一緒に読みましょう。

黙示録1 章7~8節「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。 地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」

聖書で語られる「御言葉の指針」以外に真実はありません。確かに今も昔も、神が歴史の主であることを簡単には認め難い時代です。そうであるからこそ私たちは信仰を告白するのです。

かつての時代のような気配を覚える昨今です。神以外のどんな人間が来ても、また素晴らしい制度ができても、すべてに十分とはいきません。人間は相対的な者で絶対正しいということは決してないのです。この点においては良いが、あの点においては悪いというようなものです。

どんな政治や制度にも不平、不満があり、また抑圧や犠牲となることも多いのです。

完全な世界は神によって来るものであります。ですから、私たちは、主の来られることを待ち望むのであります。

ヨハネは、「キリストの御姿」を幻によって見せられています。このお方は、かつて存在し、現在も生きて働いておられ、近い将来もう一度姿を現されるお方です。

全部を統率の中に置いておられるお方が、私たちを、愛し続けておられるのです。2000年間、私たちの罪からの解放を、いつも私たちの中に示しながら、愛し続けておられるのです。

私たちの主にある歩みは、失敗が多く、神を悲しませる者です。自分の罪深さと愚かさを知る時、神の赦しの愛が強く心に迫ります。

真の悔い改めをもって、神に近づく者を神は愛され、主の栄光の器として用いてくださいます。私たちはイエス・キリストの愛によって堅く立つのです。そして私たちのなしていくすべてが、神の憐れみと慈しみによって、整えられ、用いられていくのであります。そのことを深く感謝し、主をほめたたえて歩む時、私たちは積極的に生きていくことができるのです。一人一人に、困難と苦しみを超えて、人間の無限の可能性が、神の全能の御手の中に、握られ

ているのです。実に幸いなことです。

この生き方は、人間の可能性が、神の全能の御力に助けられ、神の祝福に与かるものです。

その「恵み」は測り知れないものがあります。

「わたしはアルファであり、オメガである」。昔いまし、後に来られる方は、今この困難の只中にある私たちと、共におられるお方であり、常におられるのです。

私たちはこの主にあって、明日からの困難の待ち受ける日々に、信仰をもって、立ち向かっていくことができるのです。

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