あなたは神から恵みを受けたのです

6月5日 礼拝説教

ルカ1:24-35

 

説教要約

今日の聖書箇所は、神から喜びの知らせを伝えるように遣わされた御使いガブリエルがマリヤに、救い主の誕生を伝えるという福音書の中でも有名な受胎告知の記事である。

この喜びの知らせは、まずマリヤ個人に対する恵みとして伝えられ、そしてこれが全ての人への恵みであることが語られる。

突然の御使いからの受胎告知を戸惑いながらもやがてそれを受け入れていくマリヤの姿は、私たち信仰者にとって見習うべき信仰の姿勢が映し出されている。

この受胎告知の箇所から御使いの三つの語りかけを取り上げたい。

「主があなたとともにおられます」

主がともにおられるとはどういう意味だろうか。これまで神はイスラエルの民全体に向けて「わたしは、わたしの民と共にいる語られてきた。神がこの言葉を個人に対して言う場合、主が特別な使命を与えて遣わす者に「わたしがあなたと共にいる」と語られた。しかし、マリヤとは何者だろうか。預言者でもなければ、霊的リーダーでもなかった。これまで神が、一個人に、一女性に「わたしはあなたと共にいる」と直接語りかけられた事はかつてない。

この新約の時代は、私たちに個人的に「わたしがあなたと共にいる」と主が語りかけてくださり、共に歩んでくださる時代である。信じる全ての者に、教会にインマヌエルなる主が共にいてくださる恵をおぼえたい。

「あなたは恵を受けたのです」

御使いの言葉に、ひどくとまどい、これはいったい何のあいさつかと考え込むマリヤに対してさらに御使いは「あなたは神から恵みを受けたのです」と語りかける。マリヤが神の子イエス・キリストのこの地上での母となる事が明らかにされていくのだが、何よりもそれは「恵み」なのだということが「おめでとう恵まれた方」、「あなたは恵を受けたのです」という言葉に主張されている。恵みとは、キリスト教用語では、受けるに値しない罪人に注がれた神の愛、価値なき者に与えられる神の愛を言う。マリヤはとても純粋で素直な信仰を持った女性である。ヨセフもまた誠実な愛の人である。しかし、だからと言ってそれが理由で彼女たちがキリストの両親として選ばれたのではない。恵によって選ばれたのである。この地上で主の母、父として相応しい人間など存在しない。彼らのうちに選ばれる理由があるのではなく、恵によって選んだ神のうちに根拠があるのである。私たちの救いもそうである。私たちはこの日本において100人に1人いるかいないかの救いにあずかっている。しかしそれは私たちが救われるのに相応しい人間だったからではなく、恵みなのだ。エペソ2:8には、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」とある。

私たちは、クリスチャンとして選ばれるべくして選ばれたわけではない。自分の救い当然のことように受け取ってが、それは、自分自身から出たことではなく、全くの神からの恵みの賜物であることを今日もう一度、思い出し感謝したい。

「神にとって不可能なことは一つもありません」

マリヤは御使いに告げられた言葉を聞いて「どうしてそのようなことになりえましょう。」と尋ねた。自分の状況を見るならば「どうして」という疑問しか出てこない。しかし、それに対して御使いは二つの言葉をもって答えた。一つは、「聖霊があなたの上に臨む」ということ。これは使徒1:8で主イエスが弟子たちに語られた約束の言葉と同じである。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」神からの使命を与えられた弟子たちが、それに従って歩もうとするときに、それを成し遂げる力を聖霊があなたに与えるのだとイエスは約束された。神の驚くべきご計画を聞かされたマリヤが自身自分を見つめた時に、どうしてそのようなことになりえましょう。という言葉しか出てこなかった。しかし、聖霊が自分の上に臨むとき、いと高き方の力によってそれが成し遂げられるのだと御使いは励ました。二つ目は、「神にとって不可能なことは一つもありません。」不妊の女と呼ばれていた親類のエリサベツの奇跡的懐妊をマリヤへのしるしとし、「神にとって不可能なことは一つもありません。」と断言する。これは創世記のアブラハムとサラにイサクが与えられた時に語られた言葉と同じであった。99歳のアブラハムとサラとの間に男の子が与えられる。そのように告げた主の言葉をサラは信じる事ができずに笑ったのだが「主に不可能なことがあろうか。」と神は語られた。この言葉を聞いたマリヤは主の前にへりくだって「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と応答した。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と、自分の現状を見ても、「どうして」という疑問しか出てこないが、自分のうちに理由があるのではなく、神の力が自分に臨んでくださる事、その神に不可能はないということ、自分のうちにではなく、神のうちに理由を見つけたのである。

この事が自分の身に起こることは、ただ恵みなんだということ、自分こそ、そのような者として相応しいというのではなく、ただ神の恵みによってそのように選んでいただいたんだということ、その全能の主がこの私と共におられ、聖霊の力によってそれを成し遂げさせてくださる。その事をマリヤは素直に受け止めたのである。彼女は、恵みを恵みとして受け止めたのだ。

マリアというのは本当に素直で純粋な信仰であった。ただ素直なだけではなく、「自分ならできる」という高ぶりではなく、「ほんとうに、私は主のはしためです」という主の前にへりくだった姿勢と「神にとって不可能なことは一つも」ないと言う言葉をそのまま受け止め信頼する生き方である。

私たちのうちにも、注がれる主の恵を恵みとして素直に受け止め、私たちに働かれる聖霊の助けを日々いただきながら、今週一週間も歩ませていただこう。

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