日本同盟基督教団 北赤羽キリスト教会 公式HP

日本同盟基督教団 北赤羽キリスト教会は、北赤羽・浮間にあるキリスト教(プロテスタント)の教会です。どなたでもご自由にお越し下さい。

今週の説教

死に至るまで忠実に

黙示録 2 章8~11節 /
2月10日 礼拝説教 増田清世師

主の年2019年、早くも2月の第2主日を迎えました。
新年を迎え、箱根大学駅伝に始まり、多くのアスリートたちの勝利を目指す熾烈な戦いがありました。そこに展開される忍耐と努力、また挫折と困難を乗り越えようと懸命に格闘する姿に、大きなチャレンジと感動を覚えたことです。

新しい年、私たちクリスチャンも、この地上の教会も、それぞれに困難な問題に直面したり、苦しみ、信仰の戦いがあると思います。
しかし、聖書は、その労苦と戦いのすべてを、私たちの主が、ご存知であると語ります。(2:2)(2:9)
イエス様はすべての教会の問題、私たち一人一人の根本的な問題を見抜いておられます。
また、ある時は厳しいことばで戒め、ある時は励まし慰めてくださいます。
それは私たちが、地上の信仰の旅路を全うできるように、神とともにある永遠のいのちの祝福に生きるようにと、導くためであります。
そこには、神の私たちへの、愛の動機があるのです。
今朝は、ヨハネの黙示録2章8~11節の学びです。
スミルナの教会の信仰の戦いから、私たちへの主の愛と
励しを受け取りたいと思います。

1.スミルナの教会
2.苦難と戦った教会への称賛
3.永遠のいのちの祝福

1.スミルナの教会
スミルナは、エペソに次ぐ繁栄を見せた大きな町です。
エペソの北約60㎞にある商業の盛んな町であります。
エーゲ海に面した港町で、気候は温暖、景色の美しいところであり、「アジヤの港」と呼ばれていました。
町の丘には偶像礼拝の神殿や、いろいろな公会堂などが立ち並び、それが町の冠のようだったと言われています。
スミルナはローマ帝国に忠誠を誓った都市として、皇帝礼拝が盛んでありました。
ヨハネが黙示録を書いた頃、ロ-マが要求した皇帝礼拝の形式は、年に一回皇帝を礼拝しなければいけない。皇帝礼拝の式典に参加すると証明書をもらいます。それがあれば信心深く、証明書がない人は、不信仰者ということになり、非常な迫害を周りから受けたのです。
またこの証明書があれば、他のどの宗教を礼拝してもよいというものでした。
エペソは、今日廃墟ですが、スミルナは、現在イズミルと言う町として残っており、キリスト教会もあります。
スミルナは、聖書の中での言及は、ここだけです。
年代は、紀元96年から313年です。ローマ皇帝ディオクレティアヌスからコンスタンティヌスの時代です。
313年、ミラノ勅令により、キリスト教はローマの公認宗教となり、クリスチャンへの迫害は止んでいます。 
スミルナの状態は、日本が、異教の風俗、習慣、偶像崇拝に埋もれているのに似ています。圧倒的な少数者である私たちは、スミルナの教会と重なるものがあります。
ローマ帝国の世界支配があらゆる形で実行され、偶像に溢れる社会の中で、スミルナの教会は2つの反対勢力と戦わなければなりませんでした。
一つはキリスト教に強く反対するユダヤ人の住民と、もう一つはローマに忠実に皇帝礼拝を実践するユダヤ人以外の住民からの迫害であります。豊かなスミルナの町で、クリスチャンは、経済的な圧迫、不当な訴え、また彼らの家や財産も奪われ、生活が困窮するほどでありました。
そのような生活苦を実体験しているスミルナ教会に、 「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」
復活の主イエスご自身からの励ましのことばが語られます。
8.また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初め
であり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
9.わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。-しかしあなたは実際は富んでいる。-またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
キリストご自身の目には、スミルナの教会は「実際は富んでいる」との評価であります。
地上の豊かさを超えて、キリストを知り、キリストに繋がって生きる人は、キリストの目には「霊的に豊かである」と、彼らの信仰を褒めておられるのです。

2.苦難と戦った教会への称賛
このスミルナの教会は、ユダヤ人からのそしりも大きな戦いでした。その迫害についても、キリストは「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている」と。
ユダヤ人たちは「神の選びの民」と誇り、「旧約の神」だけを信じていました。その当時、新約がありませんから、クリスチャンも旧約を信じています。
クリスチャンは、主イエスこそが旧約聖書が預言した「救い主」「メシヤ」と信じ告白しています。
しかしユダヤ人はそれを拒み、スミルナ教会の人々をあからさまに攻撃したのです。
ユダヤ人たちは、皇帝崇拝も行い、信仰的に妥協し、クリスチャンたちを「唯一の神を信じない者」として、苦しめたのです。
イエス様は「彼らは、サタンの会堂に属する者」と、断言されています。
スミルナのクリスチャンたちは、ローマ帝国から皇帝崇拝をしないことで圧迫を受け、ユダヤ教徒からは唯一の神を信じないと批判され、苦しめられたのです。
スミルナのクリスチャンたちは、その攻撃にも忍耐して、
自分たちの信仰を守り通したのです。神の前に忠実に生きる信仰の姿勢を崩しませんでした。
私たちの人生にはいろいろな苦難、戦いが起こります。
私たちは「どうしてこんなことが・・」と理解できない苦難、またクリスチャンとして、この世の価値観の中で、妥協しないで生きる時の周りからのプレッシャ、苦しみも経験します。さらにクリスチャンへの「あからさまな迫害」があります。
そのような時、私たちの心を惑わす誘惑と呟きがあります。少しぐらいの妥協はよいのでは、世の楽しみを持ちながらも心の中で信仰をもっているのだからと開き直る・・私たちの多くが経験することです。
復活の主キリストはスミルナの教会に、叱責がありません。スミルナの教会は『十字架を負って、わたしに従ってきなさい』(マタイ16:24)と語られる、主イエス様が喜ばれる方をあえて、いつも選び取ったのです。
どのような事態の中にも、私たちを見捨てないお方がおられます。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様が、いつもともにおられるのです。
イエス様は、私たちをご自身のいのちをもって、罪と永遠の滅びから贖ってくださった愛なる方です。善であられ、いつも最善をなさるお方です。イエス様の愛はいつまでも変わらないことを心に銘記すべきであります。
スミルナの教会は、エペソの教会と違いどこも非難、叱責が見られません。ユダヤ人による圧迫とローマ帝国によるいのちの危険の伴う迫害をご存じの主イエスは、「わたしは知っている」と語り、さらに「恐れなくてもよい」と励ましています。迫害は必ず終わりが来るので「恐れることを止めなさい」とイエス様は語るのです。
苦難と迫害を通して、スミルナのクリスチャンたちは、ますますイエス様のことばに信頼し、励ましと平安に満たされ、その信仰は強められ、霊的に富んでいるとのイエス様からの称賛となっています。

3.永遠のいのちの祝福
10節にスミルナの教会の苦しみが詳しく記されています。
「見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。
あなたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」 
「十日の間苦しみを受ける」とイエス様は語り、「迫害がもうしばらく続く」と言われます。 悪魔が攻撃してくること、信仰を試す為に投獄される苦しみがあるというのです。
文字通り10日間ともとれますが、また、ある限定された期間を表すとも言われています。紀元96年から313年の間に迫害を行った皇帝が十人現れました。
十日とは、この十人の皇帝による迫害と見る学者もいます。どちらにしても迫害、苦難は必ず終わりがあるのです。
313年、ミラノ勅令により、キリスト教はローマの公認宗教となり、クリスチャンへの迫害は止んでいます。
スミルナの教会は人間的に見ると、苦難と極度の貧困の中にあったのですが、イエス様の目には「霊的には富んでいる」と見えたのです。
主の兄弟ヤコブは、「神は、この世の貧しい人たちを選ん
で信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御
国を相続する者とされた』と語っています。(ヤコブ2:5) 
この世の貧しい者でも、御国を受け継ぐことができるとの約束。ペテロは、「神が朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにされた」と語ります。
これは「天に蓄えられている」のです。Ⅰペテロ1:4
「永遠のいのちの祝福」があるのです。 「死に至るまで忠実に」との御言葉が心に響きます。
「信仰のゆえに」生命を失うようなことがあっても、どこまで
も神の前に忠実であり続けなさい、という主イエスの勧め
です。スミルナの教会の姿は、私たちへの模範です。 
私たちの信仰のレースも、それぞれ葛藤と苦しみがあり、神に信頼して困難と苦しみを乗り越え、戦い抜く先に「いのちの冠」が輝いているのです。ゴールを目指すランナーがゴールに辿りついて初めて与えられる冠です。
それは、主イエスを信じる者に約束される永遠のいのちの祝福、肉体の死を越えて、与えられる神からの祝福です。 
この「冠」は、王がかぶるものと違い、競技をする者が受ける「勝利の冠」「殉教者に与えられる冠」でもあります。
この確信に立って、主の真実に支えられ、「死に至るまで忠実に」、希望を告白し続けて歩みたいと願います。
主は私たちの信仰生涯を、そのように祝福と感動、そして喜びで覆ってくださるのです。
11節。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」。
私たちは、誰もが肉体の死を通ります。これが「第一の死」です。死に至る召され方は迫害や投獄、病や事故等、いろいろです。聖書は、私たちには、「肉体の死」で終わることのない「永遠のいのちの祝福がある」と語ります。
永遠に神との交わりの中に生きる祝福なのです。
第二の死とはなんでしょうか。
第二の死は、イエス様を信じない者が経験することです。神との永遠の交わりの断絶であります。
私たちの主イエスは、「私たちのために十字架で犠牲の死をとげ、墓の中から三日目に甦り、生きておられます。
その主イエス・キリストは、今は天の御父のもとにおられますが、もう一度、ご自身を顕され、再臨されます。
日々キリストのみことばを心に受け止め、黙想する時に、私たちは信仰による勝利を確信します。
まことの信仰者は、第二の死に勝利でき、霊的な死を経験することがないのです。
スミルナの教会の監督であったポリュカルポスは、
「86年間私は主に仕えてきた。しかし主は一度も害を加えたことがない。私はこのお方を冒涜することなどできない。あなたは燃える火で私を脅迫するが、神を信じない者には必ず神のさばきと永遠の刑罰がある。
私は86年間、ご真実を現わしてくださった神様を裏切ることは出来ない」と、総督カイザルの命令を斥けたのです。
ポリュカルポスは、155年殉教の死を遂げました。
この出来事の半世紀以上前に、すでにキリストはスミルナの教会に対して投獄や死の警告を語られたのです。
これが肉体の死を超えた主イエス・キリストの宣言です。
死に至るまで忠実であるようにと語る主は、私たちを「勝利者」と呼んでくださいます。その勝利を得る者は「決して第二の死によってそこなわれることがない」のです。
キリストのいのちに生かされること、私たちの恵み特権です。地上の教会は、神の約束に生きてこそ、どんな苦しみ、貧しさ、苦難の中でも圧倒的な勝利者とされるのです。
大伝道者パウロは「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ8:37)。
今年の北赤羽キリスト教会の標語は「福音を生活と言葉で伝える教会」です。多くの人は福音の恵みを知りません。地上の生活で終わりという思いの中で、
神に背き、罪に苦しんでいます。偶像に惑わされて、この世の暗闇の中で神の愛と真実を知らないのです。
主が私たちを先に救われたのは、主が私たちに使命を与え、私たちの証しを用い、神の御旨を現わす為です。
私たちが、主イエスに忠実であり続けるなら、未来を恐れる必要はないのです。
イエス様は忠実であるなら、困難、苦しみ、迫害等を避けられるとは語っていません。むしろ私たちは、苦しみの只中で、「イエス様に忠実である」ことが求められているのです。その時、初めて、私たちの信仰の確かさが証明されるのです。私たちは、キリストと現在、未来に至るまで、キリストの約束から目を離さずにいることによって、忠実であり続けるのです。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」Ⅱテモテ4:8 パウロの勝利の証しです。

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