応援する力 

10月23日 講壇交換 いのちの樹教会 小見靖彦師
マタイ11:28-30

以前たまたま見ていたバラエティ番組で、とある教育評論家・・・尾木ママなんですが
「子が自分に似ていると思うか、思わないか」とパネラーに問いまして、似ていると思うと答えた父親は子に恨まれる恐れがある。と発言していました。子が自分に似ていると思う父親は自分と子どもを重ねあわせ、過度の期待をしてしまうからだ。というのです。
真偽の程はわかりませんが、過度の期待が子どもの反発を生むということは確かに言えることだなぁと思います。
自分の子はこんなもんじゃないはず。俺の子ならこうあって然るべき。

一方で子どもの親に対する反発もまた同じです。
それは親としてどうなの?と、理想の親像と比べてあまりにもかけ離れている親の実情に幻滅して反発するわけです。

どちらも子ならこうあって当然。親ならこうであるべき。という過度の期待が、相手を追い詰め反発を招く結果になっているわけです。

では親子関係は期待をしないのが良いのでしょうか。確かに、放任。無関心。勝手にすればという態度でいれば、相手に対する過度の期待も無くなるというものです。しかし、どうでしょう。それはもはや親子と言えるでしょうか。

期待するということは決して悪いことではありません。子どもは親の期待に応えたいと思って頑張りますし、親は子のためであれば我慢できるというものです。
ただそれが、過度の期待。相手の状況や理解度、顔すらも見ずに、期待だけをかけるとするならば、それはやはり重圧以外の何物でもありません。

最近、テニスの錦織圭選手が大活躍をして、俄然注目を浴びていますのが、その師匠である松岡修造さんです。熱い応援で脚光を浴びている人ですね。最近は「頑張れ」という言葉はプレッシャーになるので使わないようにと言われたりしますが、彼はいつも「頑張れ」と言います。応援がその人を後押しすると経験しているからです。しかし、一方で応援はプレッシャーにもなるとも言っています。ですからその人に応じて、すでに精一杯に頑張っている人に対しては「頑張れ」と言わず、「頑張ってるね」と言うようにしているのだそうです。なるほどなぁと思いますね。応援するということは、相手を心配し、相手に期待し、相手に同調していく。そしてそのような思いを相手に伝えることなわけです。

プレッシャーになるからといって、応援 しない。期待しない。それは気遣いのつもりでいても、逆のイメージを伝えることになるかもしれません。それは、私はあなたに何の期待もしていませんよ。私はあなたがどうなろうと全く気にしませんよ。というものです。無関心です。関係が近くなるほど、応援や期待はプレッシャーになる傾向があります。思いが濃いからです。しかし、だからそれを避けようとして、親が子に、子が親に、無関心を装ってはそれこそ互いの関係は壊れてしまいます。私たちが最も避けるべきは、プレッシャーではなくて、無関心であると思わされるのです。

さて、今日の箇所で、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われます。大変慰めに満ちた言葉です。なんだ、イエス様も、頑張らなくても良いよと言ってるじゃないか。と思われるかもしれません。しかし、一方でイエス様は「わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい」とも言われています。『くびき』というのは、農作業の折、牛や馬を使って鍬を引かせて畑を耕すわけですけれども、その時に二頭の牛の歩幅を合わせるために首にかける添え木のことです。歩幅の違う牛が横並びで荷物を引きますと、どうしても歩幅が大きいほうに負担がかかるんですね。そこで、歩幅を矯正してあげる。そうすると、負担が均等に分かれて、無理なく荷物を引くことができるというわけです。吊り合わないくびきを負っていると、それは逆に負担になります。疲れてしまいます。しかし、吊り合ったくびきを負えば、負担が軽減されるのです。

ですから、イエス様が言う「休ませてあげます」という意味は、決して荷物を放り出して、寝そべって休めばいいですよ。ということであはりません。その吊り合わないくびきを外して、私と一緒にくびきを負うといいですよ。わたしがあなたの重荷を一緒に負いますよ。ということです。だから、「わたしがあなたがたを休ませてあげます。」なのです。
イエス様は、わたしがあなたと共にいるよ。と言ってくださっているんですね。

イエス様は「頑張らなくていいよ」とは言われません。むしろ「頑張れ」と言い続けるお方。けれど、ずっと傍らに一緒におられるお方です。そのくびきを捨てて、ひとり勝手に行ってしまうお方ではありません。その働きを見守って、時に励まして、時に叱咤して、声をかけ、期待をかけ、手を引いて、そして、実は共に苦しんで、最後まで決して見捨てずにいてくださるお方なのです。

イザヤ41:10には「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とあります。
また、43:1-2には「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたととおにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」ともあります。

神様のメッセージはいつも、「頑張らなくていい」ではなくて、「わたしが側にいるよ」というものです。そして、「私はいつでも助けるよ。わたしが守るからね」というものです。

ちょうど、よちよち歩きをするようになった赤ん坊の前に手を差し出す親のようです。いつ倒れても、怪我がないように、常に準備しながら、しかし、倒れるまでは、決してその子の頑張りを奪い取ることはしない。常に隣にいて、その一歩を喜んで、期待して、励まして、声をかけ続けてくれるお方なのです。
子どもが自分でやることを、見守るということは親にとって非常にストレスですね。
手伝いたいと言って何かと子どもたちがやって来ます。親としては手伝いの出来る子になってほしい。という思いはありますが、現実は、手伝われると、余計に手がかかるので、向こうに行っててと言ってしまいます。
子どもの頑張りを奪いとって、その成長を妨げているのは、実は自分であることを思わされるのです。
子どもたちが求めている言葉は「頑張らなくていい」ではなくて、「頑張ったね。」というねぎらいの言葉ではないでしょうか。親に「すごいね。よくやったね」と褒めてもらいたい。その一心で、子どもたちは日々頑張っているのです。

「頑張れ」と声をかけることは、そこには同時に、「ねぎらい」があり、「見守り」があり、そして「寄り添い」がなくてはなりません。
ですから、それは手間がかかります。手を出したくなります。頑張ることを諦めさせたくなります。しかし、親として、牧師として、私がすべきは、むしろ最後まで応援すること、期待することだと教えられるのです。共に歩むことなのです。
以前、先輩の牧師から聞いたことです。失敗した人を立ち直らせる一番の方法は何かという話です。それは、その人に期待することだというのです。
人は諦められることほどに、辛いことはありません。
私たちは身近なその人を応援する人になりたいものです。そして、共にその喜びも悲しみも分け合う者になりたいのです。

そして、その応援は、実は私たちにも向けられています。
きっと神様から見れば、私はどれほど手間のかかる、面倒な子どもでしょうか。けれど、神様は決して私たちを見捨てません。神様は私たちの頑張りを知って喜んで下さる。期待してくださるのです。イエス様は私と同じくびきを負って下さっている。すぐ横に寄り添ってくださるお方なのです。

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