最初の確信を終わりまで

11月12日礼拝説教:増田清世師       
聖書:ヘブル13章20~25節、3章14節

ヘブル書は大部分が旧約聖書の講解である唯一の書で、私たちは何度も難しいと言いながら忍耐しつつ、学んでまいりました。
神の民イスラエルが何度も同じ過ちを繰り返す姿がありました。そのイスラエルを忍耐をもって導びかれた憐み深い神の、偉大な御計画と御旨が詳しく解き明かされました。現代に生きる私たちは、どのように生きるべきかを学ばされたことです。
最後は、祝祷をもって終わろうとしており、さらに「恵みに満たされるように」とおごそかな勧めをもって綴じられます。

1.祝祷の恵み
礼拝の終わりに牧師は、祝祷をお捧げします。この時新しい一週間の戦いに向っていく敬愛する兄姉方に自分が付き添って行けない熱い思いを、祝祷によって、父、子、御霊なる神の臨在に託します。
「祝祷」といわれる祈りは、Ⅱコリ13:13で「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」。旧約聖書の民数記6章24~26節で、「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように」とあります。
そして、3番目が今日の聖書箇所の20,21節、「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン」とあります。  
私たちは、毎週、この祝祷をどのような思いで受けているでしょうか。
祝祷は、私たちが神様の臨在と祝福のもとにあるとの約束です。
神様の祝福がなかったらどうなるでしょうか。
聖書は「初めに神が天と地を創造した」(創1:1)と神の創造の業を宣言します。
私たちの身体は「小宇宙」とも言われ、人間の考えの及ばない生命の不思議に満ちた「神の傑作品」であります。
私たちの心に神の御旨と恩恵を感じ取る霊的感覚があります。神に生かされ、崇め、讃美する喜びが与えられています。神の祝福の故です。(使徒17:28)。 
私たち日本人は、天地創造の真の神への認識がありません。創造主でなく、被造物である八百万の神々を拝んできました。偶像崇拝の問題は、この国に生きる私たちにいつも問いかけられています。
クリスチャンとその教会の生き方、歩み方は創造者なる神を純粋に信じること、そして、あらゆる出来事、物事に、神の御手を認めることです。
毎週、牧師は祝祷をもって、まことの神の祝福のもとにあるとの約束を宣言し、私たちは信仰をもって、生涯ともに歩まれる主を信じ、感謝をお捧げするのです。

2.平和の神への道
 平和の神がおられるにも拘らず、この地上は真の平和を生み出せず病んでいます。国と国、人と人、家族間に敵意があり、これが大きな妨げとなっています。罪と欲望、妬み、思い煩い、不安、恐れが渦を巻いています。聖書は心の中の敵意が無くならいと根本的な平和が生まれないと語ります。
今朝のヘブル13章20,21節をご覧ください。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、・・・。」
「永遠の契約の血による羊の大牧者」が、私たちの「平和の神、平和をもたらす神」です。聖霊と神のみことばは、私たちの心の隅々を照らします。私たちは、この敵意の罪が自分の中にあることを知らされます。
罪を犯したとき、償いをするのは当然です。罪の赦しは血によって贖われなければなりません。私たちが受けるべきこの罪の罰を、2000年前イエス様が身代わりとなって十字架の死により、神の前に処罰されました。神の御子イエス様のいのちにより私たちは赦されたのです。罪のない神の子イエス様の血こそが、神が私たちに与えられた「永遠の契約の血」です。聖書はキリストの十字架だけが敵意を拭い去り、廃棄すると宣言します(エペソ2:15,16)。主は十字架の苦しみの中から「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と祈られました。「神様、赦してください」と心砕かれて悔い改めに導かれる時、キリストの十字架のとりなしによって一切の敵意が取り去られるのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって、私たちに神との平和、自分自身との平和、他の人との平和を可能としてくださいました。罪を犯し続けた私たちを赦す神は、私たちの為に「和解と平和」を備えてくださるお方です。
ヘブル書は、「神に近づく道は、イエス・キリストにある」と繰り返し語ります。
人生には自分の力ではどうにもならないことが多くあり、自分の力と知恵によって神を動かそうとしてしまう私たちです。私たちの弱さをすべてご存じの神の前に重荷を降ろして、両手を広げて主にお見せするのです。罪を告白し、キリストの十字架の死による贖いを信じ受け入れたいと思います。私たちにできないことを、復活の主が成してくださいます。
かつては神に敵対していたパウロも、復活のキリストに会い、「神に近く歩む者」とされ、「平和の神がともにおられる人生」へと変えられました。
今や、私たちは大胆に、臆することなく、イエス・キリストによって「神に近く歩む幸い」が与えられ、「恐れ退いて滅びる者でなく、信じていのちを保つ者である」と告白できるのです。

3. 主に強められる秘訣             
私たちが直面する試練、誘惑、苦難、病気、飢餓、貧困等、移り行く人生の荒波をどう力強く生き抜くことができるでしょうか。私たちの意志、努力、修養はあらゆる境遇に対処するには限界があり、疲れ果ててしまいます。
聖書は、すべての生き方の源は「イエス様のうち」にあると語ります。
パウロの真弟子だったテモテが獄に繋がれていました。当時世界中に散らばっていたクリスチャンに「テモテが釈放されるように祈ってください」との祈りの要請があり、熱心な祈りが積み上げられました。
このような祈りの答として「テモテ釈放のニュース」が飛び込んできました。困難な現実の中、この知らせに喜び励まされ、テモテに会ったら一緒に、この手紙の受取人の元に行きたいと願っています。
パウロは、Ⅰテモテ1:12で「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。・・・」と主への信頼を力強く宣言、主によって、あらゆる困難に立ち向かえるとの信仰の確信と希望を告白しています。
イエス様に信仰を強めて頂く為に成すべき事があります。
その第 1 は「祈り」です。祈りはキリストとの幸いな人格的交わりです。
祈りのうちに、聖霊に導かれ-主にあってどんなことでもできると徹底して神に頼る信仰が与えられます。祈らずにはいられません。祈り続けても自分の願い通りにならないこともあります。
私たちは、忍耐できずに神への信頼が薄れ、祈りに向かうことが無気力になり、神の御力を過小評価することがあります。全てをご存じの神は、そういう時にもなお、
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ33:3)。
神は、私たちの祈り、願いに豊かに答えてくださいます。
私たちのどんな小さな祈りにも耳を傾け、私たちの理解を越えた、大いなることを成し遂げて、主の栄光を表わしてくださるのです。主の時、主の方法があります。主の最善を信じ、神への全面的な信頼によって現状を受取り、主とともに歩みたいと祈る者です。私たちの信仰の成長はそこにあります。
もう一つは、「みことばの確信に立つ」ことです。
祈りつつ、神のみことばを読むとき、聖霊は「みことばの確信」を与えてくださいます。
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 昔の人々はこの信仰によって称賛されました」(ヘブル11:1,2)。
私たちはみことばを通し、祈りを通し、神にさらに近づくのです。日々、忙しい中にも時間を確保し、主を深く知り、主との密なるデボーションを、何物にも勝る至福の時としたいものです。

4.おごそかな勧め
へブル書の書かれた目的は、私たちが「罪から救われ、約束の地」を目指す途中で「挫折しないように」励ますためです。
初代教会時代、ローマの支配下で人々は悩み、苦しみ、試練に直面、信仰生活は岐路に立っていました。異端の教えと皇帝礼拝を強要される危機的状況でした。
パウロもペテロも殉教する厳しい現実がありました。 
へブル書は動揺する彼らの目を「信仰の視点」にしっかり留めさせます。
「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました」(ヘブル1:2) 
聖書の信仰は、神様が人間に語って、御心を示されたことにかかっています。人間が真理を探究して到達した教えではありません。この御子が天地の創造者であり、完全な神であり、罪のきよめを成し遂げ、大能者の右の座にいると宣言します。
救いの恵みは「イエス・キリストの贖い、十字架と復活」にあり、「永遠の大祭司イエス様の恵み」によると語るのです。ヘブル書は、旧約聖書からの多くの引用により、神へ至る道を開いた大祭司イエス・キリストの恵みを語っています。
そして、最後に、「恵みが、あなたがたすべてとともにありますように」と心からの祝福の言葉をもって結ばれています。信仰に生きる者へのおごそかな勧めです。
聖歌229番「驚くばかりの恵みなりき、この身の汚れを知れるわれに」アメイジンググレイスとして有名です。この賛美歌を作ったジョン・ニュートンは奴隷を売買する海賊船の船長でした。ある時、神の光に照らされ、自らの醜い姿を見せられました。神に背いた生き方を心の奥底から悔い改め霊の目が開かれ、神に方向転換をしたのです。「恵み」とは、受けるに値しない者が受けるプレゼントです。
神の恵みを受けるにふさわしい者ではないのに、神がキリストを与えて救ってくださいました。これが「恵み」です。大切なのは、「神が私のことをどのように思っておられるか」と神との関係です。周りでも、自分でもないのです。
「神との関係」の中で、すべてのものから解放され、どんな問題も乗り越えることができるのです。この「恵み」に救いの喜び、希望、平安が満ちています。
「驚くばかりの恵みなりき」と賛美しつつ歩みたいと思います。この恵みを忘れると、直面する問題に気をとられ、落ち込み、先へ進めなくなるのです。
聖書は、まず、それらから目を離し「イエス様の恵みに目を留めなさい。」と勧めます。ヘブル書には「押し流されないようにしなさい」(2:1)「生ける神から離れないように」(3:12)「信仰の告白を堅く保とう」(4:14)など、試練の中で、信仰に動揺を感じている人々の信仰を励ますことばが沢山あります。
21節で、神は、私たちがみこころを行うことができるよう力を与え、御霊を注ぎ、神の導きによって「完全な者」とされる、と語ります。
「完全な者にする」というギリシャ語カタルキゾウは、「物事を適切な状態にする」という意味です。何の欠点もない完全無欠な人になることではありません。  
私たちと神との破れが修復され、生ける救い主と適合し、合致することです。
キリストのからだの一部として仲間割れせず、同じ心、一致を保つことです。 
私たちの主イエスを死者の中から導き出された「平和の神」が、私たちを見捨てることはありません。「平和の神」は「キリストにより、みこころにかなうことを私たちのうちに行い、私たちがみこころを行うことができる」ようにと、内的外的束縛から、自由にしてくださるのです。
人生の荒野は「神の声を聴く機会」となります。愛なる神は「この私の人生」を神の御心にかなったものに作り変えたいのです。「神のみこころ」に全面的に信頼を置き、神の御心からブレない信仰者とさせていただきましょう。
「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるので
す。」「きょう、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない」(ヘブル3:14,15)
クリスチャンの恵みは、「神の子とされ、天国に国籍を持つ」ことです。地上の生活がすべてではなく、御国を意識した歩みです。(ピリピ3:20)永遠の大祭司イエス様にのみ信頼する歩みであります。
「救いの喜びと確信」を終わりまで保ち続けることが私たちの信仰の生命線です。
「恵みがあなたがたすべてとともにありますように」との愛なる神のおごそかな勧めに感謝し、応答していきましょう。

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