苦難の中に輝く教会

黙示録1章9~20
7月29日 増田清世師

 7月最後の主日礼拝の時を迎えました。この7月は、私たちにとってつらい、心痛む日々が続いております。日本列島を襲った西日本豪雨による未曾有の災害により被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。続けて神様の御憐れみと、御顧みを祈ってまいりたいと思います。

歴史のすべてをご支配なさる神、「昔いまし、今いまし、後に来られる方」、「初めであり、終わりである」と仰せられる神様を見あげ、霊と真をもって礼拝をお捧げしたいと思います。今朝は、ヨハネ黙示録の4回目の学びであります。

1.主を仰ぎ望むヨハネ

2.ヨハネに臨む神のことば

3.ヨハネが見た人の子

  1. 主を仰ぎ望むヨハネ

使徒ヨハネがこの書を書いた当時、小アジアのクリスチャンたちは、ローマ皇帝ドミティアヌス(81~96)の皇帝礼拝強要の迫害に苦しんでいました。

 カタコンベの地下洞窟、そこが当時ローマ皇帝から迫害を受けた人々の礼拝所とされたことは有名です。今日もその洞窟が60箇所以上残されており、そこには500600万人のキリスト教徒が眠っているそうです。

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」9節)

 ヨハネは当時、その信仰の故に、パトモス島に流刑されていました。パトモス島は、現在のトルコの西岸に浮かぶ島で、エペソから60キロ沖合にある島であります。ローマ時代は流刑の島として知られていました。ヨハネは70歳代でした。そこで石を切り出す重労働を課せられていたのです。紀元96年頃、皇帝ドミテイアヌスの死後、ヨハネはエペソに帰ることを許されたと言われています。私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。」(10節)

 ヨハネは「わたしは、主の日に御霊に感じた」と語ります。

 聖書の中で主の日は「終末の時」を意味しますが、使徒の働きの時代は、日曜日を「主の日」と呼んでいます。ヨハネは、このわびしい環境の元、友人や人間的交わりから、身を退き、神に信仰の目を注ぎ、手を差し延べ、たった一人で礼拝を捧げています。彼の思いの中ではその島から60キロ離れたエペソの人たち、アジアの7つの教会、そこに散在しているクリスチャンの全てに心を寄せていたのではないでしょうか。

 彼らは「ともにイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている人たち」でした。場所は違いますが、主の日の礼拝をともに捧げていることを強く意識していたと思うのです

 ヨハネが目を天に上げると、かつて殉教した多くの聖徒たちが天において礼拝を捧げていました。ヨハネの身体は疲れきっていたと思います。けれども主を信じる全地の人たちと一つになり、礼拝を捧げているその感動がヨハネの心に溢れます。主の恵みを受けようと期待し、主を仰ぎ望んでいたのです。御霊の慰めがくだり、疲れが癒され、喜びが内に溢れるのです。その礼拝の中でイエス・キリストから黙示を受けるのです。

 「黙示」とは覆いを取って明らかにすることです。神は迫害下の信徒たちの不安を知っておられました。「なぜ主は沈黙しておられるのか、主は再びこられるのか。この先教会は、世界はどうなるのか」などの質問に神はヨハネへの黙示をもって答えられたのです。

聖霊がヨハネの上に豊かに臨んでくださっていたのです。

 人間は自分の行動を制限することが出来ます。しかし、御霊やイエス・キリストのあかしを束縛することはできません。神の臨在は、状況や場所に制約されるものではありません。ヨハネは囚われの身でありながら、そこを神の啓示を聞く場としました。苦難の時にしか聞くことができない神様のメッセージがあります。

礼拝で神の前に感謝と聴く耳と従う心を捧げたいと思います。私たちも全地の人々、天の礼拝に加えられていることを覚え、礼拝前に友人と語らうのでなく、聖なる主の前に静まり、礼拝に備え、主を待ち望みたいと思います。

「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。(ヨハネ4:23)

2.ヨハネに臨む神のことば

囚われの島パトモスで、たったひとりで主の日を迎え、それでも主にある兄弟姉妹たちと心を合わせて礼拝を捧げるヨハネに、主は大いなる御声をもって語りかけてくださいました。ヨハネは、人間の言葉で言い尽くし難い不思議な光景を目にしました。その時、何が起こったでしょうか。

10 私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。

11 その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

 ヨハネは、後ろからラッパの音のような大きな声を聞きました。その声の持ち主、語っておられる方はどなたでしょうか。神である主、今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者、アルファであり、オメガであるお方」(1:8)であります。 

 「ラッパの響き」とは、旧約時代のイスラエルの歴史の中で、民は「ここぞ」という大切な所でラッパの音を聞いております。たとえば出エジプト19:16で、神から十戒を授かったモーセが、それを民に伝えました。その時、イスラエルの民が皆、恐れおののいたというほどに大きなラッパが響いたのです。彼らは十戒を頂き、神と契約を結びました。大切な契約を結ぶ前にラッパの音が聞こえたのです。

ヨシュア6:5、モーセの死後、ヨシュアが民を先導し、約束の地カナン征服への最初の町、エリコは難攻不落と見えました。しかし神様の御指示は奇妙の一語でした。エリコの城壁の回りを6日の間、一日一回黙ってグルグル回り、7日目には7回回って大声を上げよと言うのです。そうすれば城壁は崩壊すると言うのです。意味が分からず、時間が長く感じましたが、ヨシュアと民は従いました。エリコは瞬時に崩壊し、勝利したのです。

この勝利を表す時に、彼らはラッパの響きを聞いたのです。

 ヨハネは投獄と重労働に苦しむ中で、神を崇めて礼拝を捧げています。黙示を示す神が、ラッパの音のような大きな声をもって、ヨハネを励まされたのです。イスラエルの民が契約の民であり、宝の民であること、エリコの城が崩れ去った時のように、「わたしが勝利を与える」「わたしが勝利者だ」との神のみことばの約束を、ヨハネは真摯に耳を傾け、受け取ったのです。

御霊の深い慰めを受け、迫害に苦しむ教会を励ます「偉大な神」を仰ぎ望んでいます。

御言葉とともに聖霊が働いてくださるとき、生ける神の御子イエス・キリスト御自身の臨在が鮮やかに現れたのです。主イエスご自身がその御口を通して、生ける主の御声が響き渡り、ヨハネはそのお方を見ていたということなのです。

 私たちの信仰生活の中でも、聖霊は、御言葉の説き明かしを通して、日々受け取る約束のみことばを通して主ご自身を私たちに表してくださるのです。主がどういうお方であるかを示してくださいます。主はあなたの苦しみをすべてご存じなのです。ヨハネのように神のみことばの約束に、耳を傾け、真摯に受け取っていきたいのです。今はわからないことが多くあります。しかし、へりくだって、神を神として崇め、神のみことばを神のみことばとして、聴き、信頼し、お従いしたいのです。

 困難な信仰生活の中で、ヨハネが受けたように慰めを、励ましを力を受け、前進させてくださいます。そのとき主は、みことばによって私たちの中に、霊的な生命を植えつけ、成長させてくださいます。私たちの霊的成長は、聖霊の助けにより、実生活の中で、みことばに生きることで培われるのです。

ヨハネが迫害に苦しむ教会を励ましたように、私たちも、愛の実を結び、まわりの人々を励まし、教会のわざの中に実を結ぶよう、祈り励みたいと思います。

3.ヨハネが見た人の子

ヨハネは仲間のキリスト者との交わりから遠く離れ、霊的交わりも薄かったようです。ところが彼は栄光に輝く主を見あげて、特別な啓示を受け、特異な経験をします。(1116節)黙示録独特の象徴的、比喩的、絵画的表現であります。

「人の子」という呼び名は新約聖書で「メシヤとしてのイエス」に言及する時に多く使われています。ヨハネは、一度、十字架につけられ、そして今は栄光をお受けになったイエス様の荘厳な幻を与えられたのです。

 この「人の子のような方」の姿は、ダニエル910章と重なるものです。彼の白い髪は、その知恵と神的性質を現わし、威光と尊厳に満ち、力と知恵に溢れた栄光の主イエス・キリストです。輝く目は全ての悪に対する裁きを象徴しています。胸に絞めた金の帯はイエスが神の元へ行って自分を信じた者たちの為に、罪の赦しを得る大祭司であることを明らかにしています。

 キリストは「まことの王、祭司、預言者なるお方です。その栄光のお姿を、ヨハネの前

に現わしておられます。私たちの罪を贖うためにただ一度の完全ないけにえとして御自身

を十字架に捧げ、今も天にあって父なる神の前にとりなし続けてくださる祭司の務めを果

たし、天地万物を御自身の御手に統べ治め、全ての悪しき力を退ける王の務めを果たして

おられるのです。

17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

ヨハネはこの栄光の主イエスのお姿を見た時、死人のようにその足もとに倒れました。

その姿の恐ろしさがどんなものであったかが推測されます。旧約聖書の中で主なる神の臨在の前に出たモーセやイザヤ、ダニエルが経験した聖なる恐れの感覚です。そして、かつて、ダニエルが将来の幻を見せられて死人のようになった時、御使いによって力を与えられたように、イエスはヨハネに手を置いて力を与え、そしてことばをもって、ご自分がどんな者であるかを語って、励まされたのです。「あなたと教会とを迫害している敵が、勝利を収めているように思えても、実はそうではなく、わたしも、わたしの教会も決して滅ぼすことができない。だから勇気を出しなさい。という励ましのことばです。

私たちの罪は私たちに有罪判決を下し、刑を宣告します。しかし、イエス様が死とハデスの鍵を握っています。イエス様だけが私たちをサタンの永遠の束縛から解放するのです。イエス様だけが私たちを罪の支配から解放する力と権威を持っているのです。イエス様を信じることで死もハデスも恐れることはないのです。キリストが両方の鍵を持っているからです。私たちがしなければならないのは、罪に背を向け、信仰を持ってイエス様の方へ方向を転換することであります。

最後12節でヨハネが見た七つの金の燭台、16節で見た七つの星の意味が明らかにされます。

20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

七つの星も七つの燭台もともに地上に建てられた「主の教会のことです。七つの金の

燭台の真ん中に立っておられる人の子のようなお方の姿とは、まさに栄光の主イエス・キリストが教会の真ん中に立っておられるという偉大な恵みの事実を示すものです。

教会が何に直面しようとも、イエスは包みこむ愛と安心させる力を持って守ってくだ

さいます。ご自身の御霊を通して、イエス・キリストは現在も教会の中におられるのです。教会が迫害される時、キリストの深い愛と思いやりを思い出すべきです。教会が内部の争いや闘争に悩むとき、キリストが純潔さを心にかけ、罪を大目に見ないことを思い出すべきです。

教会とは、神によって召し集められた人たちの群れです。イエス・キリストは「教会の

頭」、私たちは「教会の肢体」です。神様は私たちを通し、主のわざを見せ、福音の恵みを聞かせ御自身の栄光のもとに招かれます。教会は、キリストの御業を地上で現実のものとされます。燭台の真ん中におられるキリストが共に働かれるのです。

イエス様は、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)と励ましています。

 イエス様は「恐れることはない。私があなたと一緒にいるではないか。・・・あなたを証人として立てているのは、この私なのだ」と、後ろから呼びかけてくださり押し出してくださるのです。今日、主の御声を聴き分けることが求められる時代です。

 初代教会時代、ローマ皇帝による皇帝礼拝の強要に、毅然と立ち向かい抵抗した彼らの信仰の姿勢は、現代の私たちに徹底して主にのみ信頼することの警鐘となっております。

 イエス様はご自身を「最初であり、最後であり、生きている者である」(1718)と語り、また『地上の王たちの支配者である』とも宣言なさるのです。ヨハネの前に栄光に満ちた御自身をお示しになった主イエス・キリストは私たちと終わりまでともに歩んでくださるのです。

 私たちは、あまねく全地を見渡す神のご支配の中にあります。信仰を守り通すことが困難と見える時さえ、死を越えてキリストにある復活の希望、栄光の主イエス・キリストの御旨が必ず成就すると約束され、信仰の勝利が鮮やかに証言されているのです。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

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