「あなたはどこに」 ヘブル2章5~15節

聖書は「人とは・・」「人の子とは・・」と問いかけています。
1.十字架による死
人間が何者だと言うので、これをみこころにとめ、人の子が何者だと言うので顧みられるのか、と語りかける聖書、これは詩篇8篇の引用です。詩篇の記者は神が創造された宇宙の壮大さに圧倒されています。そこで自分の小さい存在を実感しています。
ヘブル書は「人、人の子」を御子イエス・キリストの姿と重ね合わせて、「こんな小さい者に目を留められるのはどうしてですか」というのです。すべてに勝り、御使いよりはるかに勝る神の御子―なんと御使いよりも低く低くなられ、死の苦しみをも味わわれたと証言するのです。14節にあるように「子たちはみな血と肉とを持っているので、主のまた同じように・・」とあります。私たちと同じく貧しさの中に入ってこられ、その最後は十字架上で生身の体に釘打たれました。十字架の死はすべての人のためのものです。それは多くの人々を救いに導くための「神のみこころ」でした。
2.死を打ち破るいのち
 15節に「一生涯死の恐怖に繋がれ」とあり、これが人間の現実の姿です。この地上に生まれ出た瞬間から、人間の命の後ろに死の問題がへばりついています。いつ死ぬのかわからない私たち、死の恐怖で奴隷状態に縛っている存在が指摘されています。それが悪魔であり、「訴える者」の意味です。その悪魔によって私たちは奴隷状態にされ、神の御子イエス様にも攻撃をしたのです。断食を終えたイエス様を誘惑した悪魔、イエス様の歩む道を妨害し、罪を犯させよう、殺そうと策略を企てました。イエス様が十字架上で息を引き取った際、悪魔は自分が勝利したかのようでした。しかしイエス様の死は、悪魔に致命傷を与えたのでした。14節に「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」とある通りです。「罪の支払う報酬は死です」とあり、この死に3つの意味があります。「肉体の死」ご臨終ですと言われる死。「霊的な死」生ける神との関係が断たれている死です。そして「永遠の死」です。この時、創造主の前に立ち、裁きを受けます。このイエス様を心から信じるなら、私たちは罪赦され、もはや悪魔の支配から解放されるのです。「十字架の御苦しみ」はこの私の為でした。

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