「神の民としての自覚」 ヘブル11章23~27節

見えない方を見るように生きたモーセの両親とモーセに目を向けてみましょう。
1.見えない方を見る信仰
「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって3か月の間隠されて・・」(23節)。出エジプト記1章で、パロ王はイスラエル人を恐れ、過酷な重労働を課します。にもかかわらずイスラエル人は増え、パロは、生まれた男の子をナイル川に投げ込むように残酷な命令を出します(出エジ1:22)。モーセの両親は神を恐れ、モーセを生かし、守ろうとします。信仰は、見えないものに目を向け、現実の背後にある神の配慮、御旨を信じ、待ち望むことです。
2.信仰による選択と決断
成人したモーセはパロの娘の子とされることを拒みます。イスラエルの民とともに歩むことを選ぶのです。自分は神の民であるとの自覚が大きな助けとなり、同胞イスラエルを助けるために立ち上がります。人生の岐路に立ち、信仰による選択と決断をするときがあるのです。モーセは、「見えない方」を見つめ、見えない方の指し示す道を見て、信じ従いました。
3.信仰により克服する人生
信仰によって生きる、そこにいろいろな困難、抵抗、挫折、妨害等があります。モーセの両親も、モーセもその厳しい環境に恐怖を経験するものであったはずです。生きて働かれる神に必死に祈るモーセの両親の姿が見えます。パロの娘の子として育てられたモーセの心には、神の民であるという自覚が、困難で恐れのつきまとう生き方へと突き動かしています。なぜなら神の民には神のいのちがあるからです。私たちも神のいのちにあずかる者として、「神の民とともに苦しむ」ことを選び取りたいものです。そこには神の祝福があるからです。
キリストのゆえに受けるそしりを大きな富、宝と考えて困難な戦いを忍び通すものとされたいと思います。「目に見えない方を見るようにして」という信仰の姿勢、神様の前で心静かに、耳を傾ける(傾聴)する習慣を身に着ける必要があります。静まらなければ、神様の御声は聞こえてこないのです。神様は見えてこないのです。自分の前に主を置く訓練、行くところどこでも主を認め、主に拠り頼み、見えない方を見ながら大胆に歩むことです。

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