5月29日礼拝説教
ルカ1:5-25 「喜びのおとずれ」
説教要約
ルカは救い主の誕生を描く前に、ザカリヤ夫婦に対する喜びのおとずれの出来事を挿入する。マタイは福音書を書くにあたってそのような個人的なエピソードは入れず、すぐにメシアの系図を記した。
ザカリヤとエリサベツ夫婦に男の子が与えられる。この喜びの知らせは非常に個人的なものである。(14節その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、)しかし、その生まれてくる子ヨハネはやがて救い主の前ぶれをする者と言われている。ヨハネは、エリヤの力と霊でイスラエルを、彼らの神である主に立ち返らせる者となり「多くの人もその誕生を喜」ぶと言われている。
ヨハネの働きは約束のメシアの到来が近い事を示し、整えられた民を主のために用意する彼の存在は何よりも父なる神の喜びとなる。
御使いガブリエルによって知らされたザカリヤに子が与えられるという喜びの知らせ(福音)は、個人的な喜びから多くの人に対する喜び(普遍的な喜び)へと広がっていった。
このように福音は、私個人の喜びであり、また、全ての人に対する喜びの知らせなのである。
この喜びの知らせ福音を個人的なものとして受け取ったのならば、今度は他の誰かの喜びとなるように福音を宣べ伝えるように私たちは召されているのである。
なぜならこの喜びの知らせ福音は、それを受け取った者たちによって伝えられ、それを受け取った者たちがまた伝え、やがてこの日本の私たちのもとにまで届いたからである。
多くの人は福音を受け取ったらそれを個人的なものとして留めてしまっている。それで満足してしまっている。しかしもし、福音を受け取った喜びだけで満足しているならば、それ以上の喜びは与えられない。それ以上の喜びとは「喜びのおとずれを伝える」という喜びである。私たちはこの喜びを受け取った人と共に喜び合うことができるのだ。喜びと言うのは、一人で喜んでいるのならばそれは、一人分の喜びにすぎない。しかし、誰かと共に喜ぶなら、その喜びは二倍、三倍、四倍にもなるのである。
もし、私たちが福音を受け取った喜びだけで満足しているならば、自分に与えられた「喜び」までもが、新鮮さを失い、大きな喜びだったはずが「小さな喜び」となってしまい、「過去の記憶」となってしう。多くの人は、自分が救われた時の喜びが薄れてしまっている。その一つの理由は、この喜びを誰かと共に喜んでいないということ、この喜びを誰かに伝えていないということにある。私たちはこの個人的な救いの喜びである福音を多くの人と分かち合い、共に喜ぶことによって、いつも救いの感動を忘れないようにしたい。
ルカ1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。