初めの愛に

10月7日

黙示録2章1~7節

増田清世師

「ヨハネの黙示録」を学んでいます。

黙示録は2章、3章に入りますと、ローマ帝国のアジア州にある7つの教会、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ教会へのイエス様からのことばが語られます。それぞれの教会の長所を誉め、短所について警告が語られています。さらに「勝利する者に対する約束」で終わっています。理想的な教会の特徴はどういうことでしょうか。それぞれの手紙は当時存在した教会に宛てて書かれていますが、歴史全体を通して、地域性を超えて、今日の諸教会にも見られる諸問題、課題等当てはまることであります。

復活されたイエス様は地上のご自身の諸教会を巡回し、それぞれの教会の状況をよくご存じであられます。

全世界の教会の主は、私たち北赤羽キリスト教会の主であられます。主の御憐み、恵みによって、今年、宣教24年、献堂15年の時を迎えています。 私たち北赤羽キリスト教会は、主キリストの御前でどういう教会でしょうか。主キリストの御前で、個人の信仰生活はどうでしょうか。主イエスは、今朝、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」と言われます。神様は、常に聴く耳、聴く心のある者に語られます。

今朝の聖書箇所から、エペソ教会への主のみことばに心開き、お従いする心をもって傾聴したいと思います。

1.福音の恩恵を受けた教会

2.忍耐と労苦をご存じの神

3.初めの愛に

1.福音の恩恵を受けた教会

復活のキリストは、パトモス島のヨハネに、まず初めにエペソの教会にキリストの使信を書き送るように言われます。

1節 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」

七つの金の燭台とは7つの教会、七つの星とは教会の使徒たちのことです。前回、学びましたように、「復活の主」キリストが7つの教会の間に立っており、教会の間を歩き回り、守ってくださる。キリストがともにおられ、御手の中にしっかりと握りしめて、燭台として光を輝かすようにされるのです。御自身の教会を豊かに導かれる「大牧者キリストの姿」です。

迫害の中にある教会、また牧会者にとって、「復活の主」キリストが確かにともにおられることは、実に大きな慰め、励ましであったことと思わされます。

黙示録が書かれた時エペソの町は、小アジア最大の都市であり、エーゲ海に面し、人と物が行き交う港町として知られていました。また、大女神アルテミスを祭る神殿を中心に栄えた異教と偶像礼拝の町でもありました。

エペソ教会は福音の恩恵を受けた教会であることが新約聖書の使徒の働き、エペソ書、テモテ書等から知ることが出来ます。パウロは、紀元52年頃、第2回伝道旅行で、コリントからエルサレムに向かう途中、立ち寄っています。(使徒18:19~21)プリスキラとアクラが残って伝道に携わり、教会が誕生しました。パウロは、さらに第3回伝道旅行の折、この地にまる3年滞在してエペソを中心に小アジアの伝道が拡大しています。

「アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主のことばを聞いた。」(使徒19:10)と記されています。 福音の宣教は、エペソの町の偶像大女神アルテミスを祭る神殿礼拝にも大きな影響を及ぼしました。アルテミス神殿のミニチュアを作っていた銀細工人の売り上げが減少して、騒動が起こっています。(使徒19:23~41)

パウロはエペソを去り、エルサレムへの帰途、ミレトにエペソの長老たちを呼び寄せ、決別説教をしております。「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです(使徒20:28)。

エペソ教会は「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」「神の民、キリストにある共同体」

であること。「聖霊によって、神がご自分の血をもって、買い取られた民の群れであることを忘れないように」と念を押して語ったのです。

神の教会はキリストを信じることによって罪が赦され、神の子とされた人々の群れです。私たちも、これと同じ「健全な教会観」を持つことが望まれます。一人一人が、キリストの血による贖い、「キリストのいのちに生かされ、結びあわされています。

北赤羽キリスト教会は、教会の頭であるイエス・キリストとの交わりを保ち、聖霊のご支配と守りの中に「存在」しています。このことを、しっかりと覚えていたいと思うのです。

パウロの伝道後、テモテが牧者として奉仕をしました。テモテの後を継いで、パトモス島の使徒ヨハネも奉仕に携わっています。エペソ教会は、使徒たちを通して、他に例がないほど、豊かに「福音の恩恵を受けた教会」であり、エペソの町は既にキリスト者の証しの長い歴史をもっている町でした。

エペソ教会は、パウロやテモテ、ヨハネの指導を受け、優れていた点が多くありました。迫害の中で彼らの献身的な奉仕と労苦と忍耐を、キリストはよく知っておられたのです。

2.忍耐と労苦をご存じの神

七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が、「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」(2、3節)

復活のキリストが、エペソの人たちにまず言われます。「わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」(2節)

かつて使徒パウロも、ローマの獄中から「エペソ教会が、神がご自分の血をもって買い取られた神の教会として、信仰の闘いを果敢に推し進め、忍耐と、聖徒に対する愛のわざを実践していることを喜んでいる」と書いています。

それから30年、今度は復活の主イエスがパトモス島のヨハネに「あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている」と語っています。神様への忠実な歩みは他の人々からは殆ど見えません。

祈りの生活も誰にも知られません。私たちの主イエスは、全部を知っておられるのです。

主イエスの愛に生きる人々は、人に見てもらうため、人に知ってもらう為の努力ではありません。神に喜ばれる為に労苦し、務め励むのです。一人で、神にのみ信頼を置いて「祈ること」は、ある時には辛くもあり、大きな忍耐そして信仰が必要です。主イエスは、私たちの労苦と忍耐を知って受け止めてくださるお方です。私たちが主に信頼して、委ねて祈っていくとき、神様はそれを測り知れない恵みと祝福に変えてくださるのです。主のご愛を知り、主を愛する者と変えられます。

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ3:19

もう一つ、主イエスはエペソの人たちを称賛しています。彼らが、どれが本物かを「見抜く知恵、信仰的洞察」をもっていたというのです。それはパウロがかつてエペソの長老たちに、「私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回るようになる」との忠告を、ずっとエペソ教会の人々は心に覚えて、信仰的洞察を大切に守り続けたのです。彼らは辛いことを主への愛を以て忍耐したのです。

さらに主イエスは、エペソの人たちに向かって、「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる」(6節)

ニコライ派がどのような教えのグループであったかははっきりしません。信仰を心の内側の問題だけとして、偶像礼拝や不品行などの罪を問うことをしない妥協的な態度をとっていたようです。世と妥協する姿勢を、主イエスもそれを憎んでいると言われます。エペソ教会は、その誘惑に毅然とした態度を取ったのです。

私たちもまた、罪と性的不品行の蔓延している邪悪な時代に生かされています。この世の習慣、考えに妥協するのでなく、神のことばを物事の善悪を判断する基準として生きるのがキリスト者です。エペソ教会はそのような偽使徒の教えを教理的にも論破し、偽りを見抜き、正しさを追求する教会でした。ですからこのように外と内から起こってくる問題に対して「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった」とイエス様から称賛されております。

エペソ教会はこうして御言葉による成長、信じる者に約束されている御国を受け継ぐ喜びと希望を握っておりました。困難や試練を、神への愛をもって耐え忍び、信仰に踏み留まった教会でありました。

3.初めの愛に

キリストは、エペソ教会を、「労苦し、忍耐し、偽物をはっきりと見抜き、それを斥け、耐え忍び疲れることがなかった教会」と、称賛しています。にもかかわらず、最も厳しい叱責を主イエス・キリストから受けています。何があったのでしょうか。

4節 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

問題は彼らが「初めの愛から離れてしまった」点にありました。彼らが離れてしまった「初めの愛」とは何を指すのでしょうか。それは「主イエスの十字架の愛、赦しの愛」であります。

黙示録1章5節、6節「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である」また初めの愛とは、「父なる神の救いの愛であり」、「父なる神と御子イエスの愛に裏付けられた、お互いの間の愛」です。

第一ヨハネ4:9~11節 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちも互いに愛し合うべきです」

エペソ教会はこの愛から離れてしまったのです。エペソ教会への称賛の全ても、この欠点を埋め合わせる事はできないのです。そのエペソ教会はパウロの伝道開始から世代が変わり、教会内に異教や異端との闘いが生じました。そこには当然議論や論争が始まったのです。信仰の忍耐を貫く中で、いつのまにか互いに裁き、中傷し合う醜い教会になっていたのです。

一番大事な「愛を見失ってしまった」エペソ教会の姿です。それで主イエスは、厳しく叱責の言葉を語られます。

5節 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、はじめの行ないをしなさい。

もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

主イエスは、エペソ教会が神の教会として、麗しく回復することを願って、「どこから落ちたかを思いだし、悔い改めて、初めの愛に立ち返りなさい」と厳しい叱責の言葉となっています。主イエス・キリストが示された「最初の愛」に立ち戻ることです。

主はエペソ教会を愛しておられます。これは愛なくしては語れない言葉です。

私たちの主イエス・キリストは、私たちの全てを満たす為にまず僕となり、十字架の死を遂げ、墓に葬られよみに下り、三日目に復活されました。私たちを愛し、最も低き所、人生の最底辺に下られたイエス様です。

復活の主イエスは私たちの間を巡り歩いてくださり、私たちの信仰の忍耐を知っておられます。大牧者主イエスは、私たちの過ちや罪を戒め、悔い改めに導かれます。悔い改める者にいつでも主イエス・キリストの十字架に示された初めの愛に立ち戻らせてくださるお方です。

7節「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」。

主の御言葉に謙遜に、聴く心と耳が求められています。耳障りの良い言葉だけでなく、耳の痛い言葉をも、主イエスからの愛の言葉を、へりくだって聞く者でありたいと思います。主イエスは、初めの愛に生きる私たちに、永遠のいのちの希望と祝福を約束しておられます。大牧者なる主がそこに至る迄の歩みを導いて下さるのです。北赤羽キリスト教会が、私たち一人一人が、主への初めの愛に生き、主の愛に応え続けて歩みたいと願います。

この説教を準備していた時、横須賀中央教会の宣教70周年記念誌が送られてきました。私と家内が神学校卒業して、最初に遣わされ、岡村先生ご夫妻のもとで伝道者としての訓練を受けた教会です。現在は、荒井隆則牧師が牧会されて、教会の群れが大きく豊かに形成され続けています。荒井先生は、記念誌のあとがきに次のように記しておられます。

「主のからだなる教会が、終わりの日に何をもって主にはかられるのか、そのようなことを絶えず意識して考えてきた11年間でした。教会がどのように教会のいのちを守るかを意識して考え、祈ってきました。黙示録の7つの教会に対する使信は、現代教会に対しても色褪せないものです。人は目に見えるもので、あるいは数字で教会をはかりたいという誘惑を受けますが、霊的視点にたつならば、主がはかられるのは、「キリストのいのち」が保たれた群れ、肉の部分をそぎ落とし、御霊に支配され、キリストにあってしっかり結び合わされ組み合わされた群れがそこに形成されてきたかどうかでしょう。」心に強く響く言葉であり、自らを深く探られる言葉です。主へのはじめの愛を新たにされたことです。

使徒ヨハネはやがてパトモスから解放されエペソに帰りました。高齢で衰弱し動けなくなっても教会に運んでもらい集まる人々に「兄弟たちよ。互いに愛し合いなさい」と励ましたそうです。

「愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」エペソ5:1,2

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