黙示録1章4~6節 4月22日
増田清世師
神様が黙示録を学ぶ機会を与えてくださり感謝しています。
前回は、この黙示は「神の時が来たなら、すぐに成就する」ということ、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである」と学びました。
ヨハネ黙示録は、紀元90年に書かれました。当時小アジアのクリスチャンたちはローマ皇帝ドミテアヌスの迫害に苦しみ、「終末とキリスト再臨」を非常に強く待望していたのです。使徒ヨハネは信仰ゆえにパトモス島に流刑され、そこで主イエス・キリストから将来起こることを幻によって見せられました。それを書き記したのが「キリストの黙示」です。
黙示とは、「神の側の隠されたことが明らかにされる」「知られていない霊的真理が明らかにされる」ことです。聖書の舞台であるイスラエルと周辺の中東諸国は、今も紛争の火種を抱える不安定な地域です。
「恵みと平安があるように」と言う言葉は、アブラハム以来イスラエル民族が交わす挨拶であります。今日の私たちも、また、混沌とした世界情勢の中で、主の恵みと平安を祈る日々です。この黙示録に神が成し遂げる恵みと平安があります。主の再臨の日が一段と近づいている今日です。再び来られる主キリストへの希望を持って、良き備えをしていきたいと思います。
1.聖霊による忍耐と希望 2.聖霊の宮なる教会と私たち 3. 聖霊の慰めと励まし
1. 聖霊による忍耐と希望
「ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に
来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、」(4節)。
この手紙の差出人は「ヨハネ」とあり、あとは何も付け加えてはいません。
ヨハネは「ヨハネの黙示録」が書き送られた諸教会で、約30年間(教会の責任者)の地位にあった人です。これはヨハネが多くの人々に知られており、イエス様の弟子のヨハネであることを裏付けるものです。
宛先は「アジアにある七つの教会」とあります。具体的には「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤ」の諸教会であります(11節)。当時、アジア州には7つ以上の教会がありましたが、コロサイの教会は、ここには含まれていません。
この「アジアにある七つの教会」とは、主イエス・キリストにあるすべての教会を指す普遍的な表現と受け取ることができます。ですからこの手紙は時代の壁を超えて、今日の私たちの教会にも語りかける手紙です。
私たちはどのような態度で、如何に聴くべきでしょうか。
ヨハネは冒頭で、この黙示は父なる神から出たものであって、御子イエス・キリストへ伝えられ、御子から御使いによってヨハネに伝えられたと語ります。さらに読者へと伝えられる「神の言葉としての権威と信頼性」を述べています。これは朗読されるため、聞かれるためであり、正しい態度で学び、服従する権威のあるものであると言う意味であります。ヨハネの見た事が実現する重大な時期が近づいているからです。神の権威あることばに畏れと従う心で黙示録に聴きたいと思うのです。
この手紙の受取り手である当時のクリスチャン達は、ローマ帝国により、皇帝礼拝を強要され、抑圧されていました。指導的なクリスチャンは全て捕われ、殺されて、教会は窮地に陥っていたのです。
使徒ヨハネは迫害に苦しむローマ各地の教会に思いをはせ、全能なる主を見上げ、祝福の祈りをしています。
「常にいまし、昔いまし、後に来られるお方から、恵みと祝福がありますように。また、七つの霊、御霊なるお方から、恵みと平安があるように。」
ヨハネ黙示録が、こうした迫害下に書かれた理由は、現実、迫害の中にある人々に、将来迫害を受けるどのような人にも、どんな時にも、キリストの勝利と希望があるとの確信のメッセージを届けることでした。ヨハネは信仰の覚醒と忍耐と希望を持ってこの厳しい迫害の時代を生き抜くようにと励ましています。
今の時代は当時のような迫害はありませんが、神に逆らう風潮が強く、自分の無力さを痛感する時があります。そのような中、私たちは何を見つめるべきでしょうか。
私たち自身が神様の方を仰ぎ見、その祈りの中で、神を身近に感じ、恵みと平安を得ながら、今という現実の時を歩んで行くべきなのです。祈りの内に聖霊は、求める者に「助け主」となり、信頼する者に、忍耐力と希望を与え、平安を満たしてくださるのです。
2.聖霊の宮なる教会と私たち
ヨハネは、確信をもって、神様の御名の奥義と神様の御名のもつ意味について語ります。
「常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におら
れる七つの御霊から、」「今生きておられ、かつておられ、やがて近い将来お
出でくださるお方」。
これは黙示録の特徴的な言い方であり、大切な真理です。1:8「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。」4:8「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。」
父なる神は初めから終わりまで歴史を支配し、すべてを見通し、見守り、御手の中に治めておられるお方です。神は万物の創造者であり、やがて来られるお方です。それは、ご自分の権威のもとに、この世をいつか終わらせることのできるお方であります。
この手紙を受け取った迫害に苦しんでいた教会とクリスチャンたちは、大
きな励ましと希望を受けました。神が彼らの苦しみ、傷みをすべて知っておられること、神のご支配と全き救いに信頼と希望が繋がれたのです。
目の前の問題にだけ心を捕われ易い私たちです。しかし御言葉は「常にいまし、昔いまし、後に来られる」万物の支配者なる神御自身がともにおられることを力強く宣言しているのです。
ヨハネは私たちに、「神様は過去、現在、未来を貫いて永遠の中で、生き、動き、働いておられるお方ですよ」と、思い起こさせ、再確認を促すのです。
次に「その御座の前におられる七つの御霊から」と言われます。ここで「七つの御霊」と、先の七つの教会にふさわしい神の確かなご配慮を覚えるのです。
聖書は、教会が、そして信じる私たちが「聖霊の宮」であると語ります。教会に、私たちに、生きて働かれる御霊なる神の御臨在を現わしています。
聖霊なる神は、教会に、私たちに深く関わるお方です。これはヨハネがかつてイエス様から教わり、福音書に書き記した大切な真理です。
ヨハネ14章16~18節「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです」。
このように聖霊の神は、教会に、信じる私たちの内に与えられた「助け主、慰め主」であります。迫害と困難の中に耐え忍ぶ教会を、私たちを助け、励まし続け、慰めを満たしてくださるのです。「あなたがたを捨てて孤児にはしない」「わたしは、あなたがたのところに戻って来る」と神の手厚いご配慮を深く覚えさせてくださり、心に「神による平安」を与えてくださるのです。
あなたはこのみことばの真実にアーメンと応答していますか。日々御言葉の確信の内に歩みたいと思います。
3. 聖霊の慰めと励まし
イエス・キリストは、『忠実な証人』であられます。ヨハネは今、イエス・キリストをどのように崇めるべきかを見せられています。
「イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き
放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてく
ださった方である。 キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。ア
ーメン。」
イエス・キリストは私たちを完全な愛で、愛し続けてくださいます。罪深く、身勝手なことしか願わない醜い私たちです。キリストは、身代わりの十字架に死に、私たちを罪から贖い、罪の赦しと自由を与えてくださったのです。
イエス・キリストは「私たちを罪から解き放ち、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方」とほめ称えています。私たちを「神の宝の民」とされたのです。
旧約時代、神様と人間の間に立って務めを果たすことが許されたのは祭司です。
また、大祭司のみが、神の住まわれる「至聖所」に入り人間の罪の赦しを願って、神にとりなす務めを果たすことができました。
今日は新約の恵みの時代です。かつての大祭司の特権は、主を信じるすべての人のものとされたのです。この神の成し遂げられた贖いの御業によって、イエス様を信じる者皆が「祭司となる恵み」を受け取ったのです。
祭司として私たちは、神と隣人の間に立って、神に隣人のことをとりなし、祈るのです。そして、神の御旨を隣人に取次ぐのです。私たちは、イエス・キリストを通して直接神に近づくのです。
イスラエルの人たちにとって、大祭司は大きな権限を持っており、高い地位にありました。今の政治家以上の指導者、リーダーだったのです。しかし真の大祭司イエス・キリストは、仕え人としてのリーダーの姿であります。世の人たちの罪を全部洗いきよめてくださるお方です。イエス様は、私たちの一番醜い自己中心を非難するのでなく、それを全部ご自身の血で洗ってくださり、祭司としてくださるお方です。
私たちの祭司としての働きは、仕えるために来てくださったイエス様の側におり、イエス様に倣う者としての働きであります。「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2:2,3)と聖書は勧めています。
私たちのために歩まれた主イエスの御足の跡を辿るとき「苦難から栄光へ」の主のお姿と主の恵み深さに、主をほめ称えるのです。私たちは「小羊キリストに栄光と力がとこしえにあるように」と主を崇め、賛美する歩みでありたいと思います。
この黙示録が教会の中で読まれ、聴かれることは、私たち、キリスト者の幸いであります。
霊的覚醒と信仰の確信と主の御旨に服従できる者へと成長するのです。神の前に静まり、今がどういう時か、何をなすべきか。聴きたいと思います。最優先すべきは、心砕かれて主を礼拝し、主に聴き従うことを選び取ることです。
教会の働きは、牧会という職務とそれに仕える使命です。
神様は御旨と秩序が教会に浸透、実現し、教会が「恵みの手段」によって養われるようにされました。その恵みの手段は(神の御言葉とサクラメント 聖礼典)です。
地上の教会はこの「主のいのち」に生かされており、信仰者の多くの悩み、苦しみの突破口は、イエス・キリストへの信頼と信仰にあります。
約束のものを手にする為に必要なのは信仰と忍耐です。「私たちは恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です」との約束の通りです(ヘブル10:39)。
地上の教会はこの世に押し潰されそうになりますが、父、子、御霊の三位一体の神によって堅く建つのです。初代教会へのローマ帝国の迫害は200年余り続き、教会が危機的状態になって後、紀元300年頃ローマの人々が次々とクリスチャンになる奇跡が起こったのです。313年のミラノ勅令でコンスタンティヌス1世がキリスト教を公認したのです。今に続く2000年間、教会は「聖霊の慰めと励まし」を受け、恵みと平安に満ち、力強く主の素晴らしさを証し、前進し続けています。
パウロはピリピ教会に、「あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることに与かった」と感謝しています。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでに完成させてくださる」と神にある信頼と希望を告白しています(1:5,6)。
私たちも聖霊の助けにより、神に喜ばれる信仰者としてキリスト・イエスの日を待ち望みたいと思います。