試練の意味

創世記43:15-34/
2020年2月2日
(牧師体調不良により、説教代読)

創世記からヨセフの生涯を取り上げています。
少年時代に夢を見たヨセフは、その時にはその夢の意味は分かりませんでした。しかし、牢獄で料理長と献酌官長の夢を解き明かし、エジプトのパロの夢も神から与えられた知恵によって見事解き明かすこができました。恐らく小さい時に見たあの夢の意味も理解したのだと思います。
大飢饉の2年目にヨセフは10人の兄たちと、約二十年振りに再会を果たしました。20年前は兄たちに奴隷として売られましたが、今はヨセフはエジプトの大臣になりました。この20年、ヨセフは様々な試練を通して訓練され、整えらました。
ヨセフはエジプトの試練を通して成長して見違えるようになりました。それでは、あの兄たちはこの20年間でどう変わったのか?昔のままなのか、自分を奴隷として売り飛ばした時のような兄たちなのか、それとも彼らもまた変えられ、成長していたのか。それを吟味するために、ヨセフは自分が弟のヨセフだということを隠して、兄たちに様々な試練を与え、兄たちをテストします。
人間というのは、普段は平静を装っていても、試練の時に本性が表れます。
兄たちは次から次へと与えられる試練によって心が揺さぶられ、終に心の深い部分が露わにされていきました。
兄たちはスパイ容疑をかけられると、身の潔白を証明しようと、身の上を正直に明かし初めます。「末の弟を連れて来なければ、今後食糧を買いにエジプトに来てはならない」と言われると、その通り連れて来ようと父ヤコブを必死に説得します。長男のルベンは自分の二人の娘の命にかけてシメオンとベニヤミンを無事に連れ帰ると言い、ユダは自分の一生をかけて二人を無事に連れ帰り食糧を持ち帰ると明言しました。
このことはヤコブにとってもまた試練となりました。20年前に最愛の息子ヨセフを失った傷が癒えないままでいましたが、兄たちの必死の説得によってヤコブの心は動かされ、彼はベニヤミンを主に委ねて送りだす決意をします。

私たちの人生にも思いがけないような試練が与えられることがあります。
ちょうどヨセフが兄たちをテストしたように、神様が私たちをテストすることがあります。
私たちはこの試練をどのように受け取ったらよいのでしょうか。考えてみたいと思います。
まず最初に言える事は神様の与える試練の意図が私たちにはわからないと言うことです。
私たちのうちにその試練の意図がわからないから、色んな不安が私たちのうちに起こります。

ヤコブの10人の息子たちは自分たちの目の前にいるエジプトの大臣がまさか奴隷として売り飛ばしたヨセフだとは知らずに彼にテストされます。
兄たちはエジプトに来たスパイの容疑をかけられ、兄シメオンを人質に取られたあげく、末っ子のベニヤミンを連れて来なければ人質は返してもらえず、食料も売ってもらえない。そんな交換条件を一方的に与えられるのです。エジプトで偉い目にあったかと思うと今度は食糧を買ったはずの銀貨が自分たちの元に戻されているのです。それでなお彼らは恐れを抱きます。「神は一体何てことを私たちにするのか。」そんな風に思ったに違いありません。
そして、今度はこれまでの経緯を話して、父ヤコブを必死で説得します。そして、ベニヤミンに不幸が起きないように、彼を無事に連れて帰れるようにとおそる、おそる旅をしながらヨセフの前に出るのです。兄たちは、「神様、なぜ自分たちはこんな目に会わなければならないのでしょうか」と思ったに違いありません。「これは昔、自分たちが弟ヨセフに対してした卑劣な行いへの罰に違いない」と思うのです。

そして、ベニヤミンを連れてエジプトに行くのですが、いまだヨセフがしている事の真の意図を掴みきれないまま、不安や恐れを抱きつつ、兄弟たちはヨセフの前に進み出ます。
これは、ヨセフを神様に見立てるのなら、私たちは神様の意図を知らずに様々な試練を受けています。神様の側には意図があり、理由があるんです。それは後々なるほどこのためだったのかと解るものもあれば、天国に行って直接顔と顔とを合わせて神様に教えていただかなければわからないこともあります。
あのヨブのように、今は試練の意味は教えられませんが、神様のうちでは確かな理由があってのことなのです。
しかし、ひとつだけ言えることは、決していたずらに神様は私たちに試練を与えるものではないと言うことです。人間の考えた神は気まぐれで行動をとることがあります。ギリシャ神話やローマ神話、日本でも同じです。神話の神々は人間をもてあそびます。しかし、唯一真の私たちの神様は決して無意味な取り扱いはされないのです。神話の神は、気まぐれで人を不幸にしたり、苦しみを与えたりしますが、本当の神様はそのようなことはしません。
神のいたずらと言うことばがありますが、私たちの神様はいたずらに試練を与えて人を苦しめるお方ではないのです。

父ヤコブの許しを得てようやくルベンたち9人の兄弟は12番目の息子ベニヤミンを連れてエジプトへ再び下ります。出エジプトの時は、エジプトからカナンまでの距離はまっすぐいけば実はものの数日で着く距離だったと言われていますが、その逆を行くヤコブたちが住んでいた土地からエジプトのヨセフがいる所までどれくらいの距離があったのでしょうか。数日かけて彼らはようやくエジプトにたどり着きます。前回初めてエジプトに行ってからこれまでに長い時間が経過しています。
その時に買ってきた食糧を食べ尽くして、エジプトに二回は往復して来られるぐらいであったと言います。太宰治の小説に「走れメロス」と言う話がありましたが、これが走れメロスだったのなら、もうとっくに兄シメオンは殺されていたことでしょう。ヨセフもシメオンも、兄たちのやって来るのをまだか、まだかと待っていたに違いありません。シメオンもまた兄たちへの信頼を試されました。

そして、ヨセフは彼らがベニヤミンを連れて来たのを見るや否や、大喜びで家の管理人に言います。16節「この人たちを家へ連れて行き、獣をほふり、料理をしなさい。この人たちが昼に、私といっしょに食事をするから。」
ヨセフは果たして兄たちが戻って来るのだろうかと思っていたかもしれません。これはヨセフからのテストだったわけです。兄たちがどれだけ成長したか、あるいは昔のままなのか。人質にされてる兄シメオンを見捨てるのか、あるいは助けに来るのか。それも、自分なき家にあって、父のヤコブが自分の次に愛したであろう末っ子のベニヤミンを連れてくることができるのだろうか。お父さんを説得し、ベニヤミンを連れて来るだけの信頼を勝ち取ることができたのか。
ですから、彼らが戻って来たのを見た瞬間、しかもベニヤミンも連れて来たのを見た瞬間、嬉しくて、嬉しくて仕方なかったのだと思います。16節後半「この人たちを家へ連れて行き、獣をほふり、料理をしなさい。」
一つの文の中に三つの動詞が連続して入っています。家へ連れて行く、獣をほふる、料理をする。慌ただしく一文の中に三つの動詞が連続するほどに、さあ今すぐ、宴の用意をと嬉しくて仕方ないわけです。

しかし、その一方で兄たちはヨセフの言葉に恐れをいだきます。家に連れ込まれてまた何か罠にはめられるのではないかと、そう思ったのです。
彼らは食事の招きにも何か裏があると考え、それが前回のエジプト訪問の際に貢いだ銀が返されていた一件を咎め立てるためと予想して、ヨセフの家の管理者に自分たちの身の潔白を必死に主張し初めます。
家に連れ込まれる前に、ちょっとまってください、あの時の銀は・・・と。
兄たちは自分たちがヨセフの家に連れ込まれる事を聞いて、前回食糧を買いに行った時に支払った、銀が自分たちの元に返されていた事で、また言いがかりを着けられるといけないので、まずその事をはっきりとさせておこうと思ったのです。
しかし、それに対して管理人からは思いもよらない言葉を耳にするのです。23節「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。あなたがたの銀は私が受け取りました。」それから彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。
なんと管理人は、銀は私が受け取ったと言ってシメオンを連れて来てくれたのです。

ひとつの出来事に対して二つの見方があります。
1つは、「神はなぜ、私にこんなことをするのか?」という信仰です。
自分たちの袋に銀が返されていると言う出来事に彼らは心配し、身を震わせて互いに言った。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」

42:35 それから、彼らが自分たちの袋をからにすると、見よ、めいめいの銀の包みがそれぞれの袋の中にあるではないか。彼らも父もこの銀の包みを見て、恐れた。
42:36 父ヤコブは彼らに言った。「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして今、ベニヤミンをも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」
このような出来事に対して、試練に対して、「神はいったい何ということをなさったのだろう。」、「こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ。」と言う信仰。

それに対してもう一つの考え方、もう一つの信仰として、管理者のことばが非常に考えさせられます。
43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。あなたがたの銀は私が受け取りました。」それから彼はシメオンを彼らのところに連れて来た。
同じ神様のしてくださった事をラッキーと取るかアンラッキーと取るか。恵と取るか裁きと取るか。幸と取るか不幸と取るか。祝福と取るか、災いと取るか。罰するためか、憐れんでくださるためか。私たちは、よく吟味しなければならないことを教えられます。

私たちは人生の中で何故こんなことになったのかとわからなくなって不安を覚えるときがあります。祝福への道を歩んでいてその先にはそんな不安を消し去るような祝福が備えられていて、それに向かっているにもかかわらず、その事がわからないのが私たち人間なのです。

43:23 彼は答えた。「安心しなさい。恐れることはありません。あなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたのために袋の中に宝を入れてくださったのに違いありません。

脅されたかと思えば、手厚くもてなされたり、好意を受けているのかと思えば、兄弟を人質に取られたりと、彼らは大いに混乱しています。いったいこの人は何を考えているのか、本当の目論見は一体何なのか、なぜ私たち家族にだけこれほどの一筋縄でいかない対応をするのか。答えを予想してもことごとくそれを覆されるようなヨセフの揺さぶりの術中に彼らはすっかりはまりこんでいるようにすら見受けられます。
そうやって彼らが自分を取り繕ったり、演じたりする余裕を失わせ、ありのままの姿があらわになるのを見極めようとするかのようなヨセフの対応ぶりです。
この兄たちの姿は、試練にあった時の私たちの姿そのままではないでしょうか。

今朝は、ヨセフと兄たちとのやり取りを通して、私たちに与えられる試練について考えました。
結局は、私たちには与えられている試練の意味がわからないことが多いということ。しかし、神様の側には意図があって、計り知れないご計画の成就のためにそれをなさること。神様は私たちをいたずらに苦しめるお方ではないと言うこと。そして、一つの出来事に対しても、二つの見方があるということを教えられました。
しかし、試練には必ず神様の意図があり、神様の計り知れないご計画の成就のためにそれがなされているということ、そして神様は私たちをいたずらに苦しめるお方ではない、ということがわかったのなら、自ずと私たちが取るべき態度、見方は決まって来るのではないでしょうか。

Ⅱコリント
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

参考文献
新聖書注解旧約1創世記
聖書注解 創世記
ヨセフの見た夢/遠藤嘉信
牧師の書斎HP 銘形秀則師 創世記43章
徳丸町キリスト教会HP 朝岡勝師 創世記/嗚咽の物語

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