人の思いと心を探る神

ヨハネ黙示録 2 章18~29節 / 7月28日  増田清世師

黙示録の7つの教会を学んでいます。黙示録の7つの教会は、小アジアの主要都市とされた地に現実に存在した教会です。黙示録を学びながら、私たちは教会を導かれる復活の主イエス・キリストのさまざまなお姿を見てきました。      
今朝は、第4番目のテアテラの教会です。ここは現在トルコのアクヒサルと呼ばれる町で、既に人々の居住地であるため、発掘が進んでいない地域です。テアテラの町がローマ軍に降伏したのが紀元前190年、この黙示録が書かれる 300年前であります。   
テアテラの教会を導いておられる復活の主のお姿は、『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子』としてご自身を顕しています。
「燃える炎のような目」は、すべてを見通し、見抜く主の鋭い眼光、眼差しです。テアテラの教会の現状を予測させる主の御姿であります。 
今朝開かれたみことばから、真のキリスト者として、私たちの信仰生活に、何を求めるべきか、何を避けるべきか、考えたいと思います。そしてすでに与えられているキリストの救いを、信仰を、しっかりと保って再び来られる主を待ち望む者として成長したいと願います。       
1.主の鋭い眼差し 2.人の思いと心を探る神   3.いのちのことばを握る

1 .主の鋭い眼差し (聖なるキリスト)  
テアテラの町は、前回学びましたペルガモの町から南西約64キロにあり、繁盛した小さな町でありました。この町はペルガモとサルデスを結ぶ交通の中間点にあり、商工業が発達し、同業組合がありました。羊毛業、染物業が盛んで、特に染色技術に優れていました。使徒の働き16:14~16に「テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女」のことが記されています。
ギルドという商業組合は、守り神をもっていました。組合そのものが偶像と密接に繋がり運営されていました。 守護神への供え物を食べる祝宴があり、そこから不品行に結びついていました。ここから抜け出すには、みなの嘲笑と迫害を受けることを覚悟しなければならなかった、と言う状況であったのです。

18節「また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。』
「燃える炎のような目」は、すべてを見通し見抜く主の鋭い眼差し、燃え上がる怒り、清める裁きを現わしています。「光り輝くしんちゅうの足」とは、主イエスが教会の裁き主であることを現わしています。敵するものを踏み砕く主の力ある権威の象徴です。キリストは教会の現状を見抜き、それを裁く「神の子」としてご自身を顕しておられます。この教会が内側に腐敗をもっていた為です。                
私たちも恐れをもって自らの姿を主の御前に深く省みる者でありたいと思います。真実なみことばの指針に心を向けたいと思います。         

19節「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている」。
「神の子」キリストはテアテラの教会に対して厳しい叱責を考えながらも、正面から指摘されたら挫けてしまう教会の弱さをご存知でした。その手紙は、温かな賛辞から始まります。相手のことを考えて語られる主のおことば、主の優しさ、主の憐みです。ここに、人を生かす真の牧者である「主の心」を見ます。
主イエスは、この教会に「行ない、愛、信仰、奉仕、忍耐」という5つの麗しい信仰の実が結実しているのを知っておられ、「近ごろの行いが初めの行いにまさっている」と褒められました。エペソ教会と違い、何よりも愛による行ないが溢れていました。                                                           テアテラの教会は神の家族として、同じ救い主を崇め、父なる神から生まれた愛と信仰と奉仕と忍耐をもって、互いに仕えたのです。全てを最善に導く摂理の神を信じ、委ねる時、忍耐が生まれます。            私たちの信仰は地上の祝福だけでありません。それは、「永遠に続く御国に至る」神の約束を信じる信仰です。その事を覚え、地上の戦いに忍耐できるのです。この忍耐は信仰によって受け取る神の恵みそのものです。
2.人の思いと心を探る神
 残念ながら、テアテラ教会は、愛と信仰、奉仕と忍耐の模範的な姿がすべてというわけではありませんでした。「主の目の公平さ」が示されています。主は、良いところも、悪いところもしっかり見届けてくださるお方です。 
20節.しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたはこの女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教え誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。
21.わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。    
22.見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。
23.また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと
心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとり
に報いよう。
テアテラの教会が信仰の実践が行き届いた教会であると認められた主が、「あなたには非難すべきことがある」「偶像礼拝と不品行を教えるイゼベルという女をなすがままにさせている」と恐るべき罪があると指摘されます。              
教会は、偽りに満ちた女預言者を黙認してしまっていたのです。これは、象徴的に、旧約聖書のアハブ王の悪妻にちなんで「イゼベル」と呼ばれています。イゼベルは預言者エリヤの時代、民を異教のバアル礼拝と不品行に誘い込み、主のすべての預言者を殺しました。彼女は、不道徳と偶像崇拝の象徴であります。
テアテラの教会のある者たちは、彼女に惑わされ、道を踏みはずし、信仰からそれていったのです。         
その教えは「偶像に頭を下げても心で聖書の神を拝んでいれば良い」とか「不品行も偶像に捧げた食べ物も信仰に害がない、神の怒りに触れることもない」といった類です。主はこの女性に「悔い改めるように」と言われます。しかし彼女は言うことを聞こうとしませんでした。従って主の裁きがこの女性にくだされることは避けられないのです。この女性に追随していた者たちも、その生き方を悔い改めなければ、同様に裁かれるのです。
信仰を告白しながらも、この世との戦いを上手に避け、適当に妥協点を見つけて生きる生き方、こんなイゼ
ベルの考えは、私たちの心にも忍び込んでくるものです。いつの間にか、神のみことばよりも、自分の立
場、都合を優先させ、「キリストにある生き方を後回しに」していないでしょうか。

不品行や偶像礼拝、今日もキリスト者は大きな戦いを強いられています。偶像崇拝に参加し、偶像にささ
げたものを食べることは「キリストによって成就された犠牲」という聖書の教えから離れていくことになります。           聖書が啓示している真理以外の教えを真理として教える者は、自らが裁きにあうばかりか、他の人々をも躓かせ滅ぼしてしまいます。
主は「こうして全教会はわたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。」(23)と言われます。
特にキリストは、彼らの動機を問題にしています。「思い」は『腎臓』と直訳されます。キリストは人の最も内的な存在までも探ると言う事実を指しています。人目につく悪も、人目につかない悪も、如何なるものもキリストから隠すことはできないのです。
詩篇139:1、2、7
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそ私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。」
 主は「探り、知り、読み取り、わきまえる」お方です。神に対する真実の愛に満たされ、利己心を捨てた奉仕や、信仰を優先する人々に、神は報いてくださいます。神は、「正当な評価をしてくださるお方」です。           
神は、いつも悔い改める者を赦してくださるお方です。自らを制し、キリストに似た者であろうとするきよさは 模範的な教会の特徴であり、キリスト者の特徴であります。

3.いのちのことばを握る              
テアテラの教会に起こった危機、特にイゼベルのことは、教会全体に大きな悪影響を及ぼすものでした。邪悪な人々に対し、さばきがもたらされることが述べられた後に、この教会の中の一群れの人々が、主のために真実の証しを続けている「敬虔な残りの民」に、特別なことばが語られています。                 24節.しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。               25節.ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。           「敬虔な残りの民」とされた人々は、イゼベルの教えを受け入れていません。サタンの「深いところ」を知らない人々と言われています。
Ⅰコリ2:10に「御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれる」とあります。                聖霊によって教えられる、「神の深み」があるのと同様に、サタンのわざから生じる、サタンの深みがあるのです。                  
キリストは敬虔な残りの民に、「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない」と言われ、彼らがすでに持っているものをしっかりと保ち、「主の来臨を待ち望む」ようにと言われます。
「あなたがたの持っている」一つのものとは、神が遣わされた御子を信じる信仰のことです。         「最後までわたしのわざを守る者」とは、この御子イエス・キリストに対する信仰を終わりまで堅く守り抜く信仰者たちのことです。イゼベルの信奉者たちの邪悪な性格は改善する余地のないものであったのです。 
              
26節.勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。
27節.彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。
28節.また、彼に明けの明星を与えよう。
29節.耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

人類の歴史の中に人間が想像しなかったようなことが今日まで起こってきました。世界の政治、経済、宗教活動の激しい移り変わりの中、私たちはそこに「生きて働かれる神」を恐れる者です。そこで神は着実にご自身のご計画を進めておられます。神は、ご自身に敵対する者に対して、速やかに罰を下すことのできるお方です。                 
こうして主イエスを信じる者たちには、神の子イエス・キリストの権威を委ねられた者としてその支配と権威を委ねられ、地を治める者となると言われます。さらには「彼に明けの明星を与えよう」とまで言われます。
「明けの明星」(黙22:16)とは主イエス・キリスト御自身を指します。主イエス・キリスト御自身を与えられた私たちが、神の子どもとして、全ての祝福に与かるという大いなる約束が与えられているのです。

25節.ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。
26節.勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。

ピリピ2:15,16「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます」

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