将来を見据える信仰

2月5日 へブル13章9~14節 増田清世師

急速に移り変わる世界情勢、先が見えない世界です。地上の諸国は国の指導者によって変化し、すべてが移りゆく世界です。
ヘブル書の書かれた時代、今朝の聖書箇所にあるように、恵まれた信仰生活を揺さぶるような出来事が、当時の教会を脅かしておりました。
人間のどんな指導者とも違い、イエス様は永遠に変わらないお方です。

1.異なった教え
当時のヘブル人クリスチャンの中に、かつてユダヤ教信者として歩んできた過去がありました。過去のユダヤ教の食物規定を守り、それによって神の恵みを得ようとする生き方に逆戻りする人々がいたのです。
「迷う」とは,風や波に弄ばれることです。異なった教えに振り廻され人生と信仰の漂流者にならないようにと戒めています。
9節「さまざまの異なった教えによって迷わされてはなりません。・・食物でなく、恵みによって心を強めるのは良いことです。・・」。
旧約聖書の食物規定に食べても良い食物と、汚れた食物との区別がありました。
それは単に宗教的な理由だけでなく、当時の健康と病気から民を守る配慮がありました。食物規定を守ることで、神に受け入れられている、「自分を聖い、他を汚れている」と批判しました。私たちも過去の世的な考えに逆戻りし易い者です。キリストの福音の恵みから離れていくのです。その愚かさをヘブル書の著者は強調するのです。 
すべてはキリストの贖いと神の側の一方的な恵みによるものです。
上から注がれる恵みを味わい、私たちの心は強くなり、霊的に堅くされます。
私たちは、イエス様により罪赦され、喜びの信仰生涯が約束されています。
驚くべき神様の救いの御業が、神の愛と恵みが私たちの心に注がれています。食物ではなく、「イエス様の恵みによって心を強められる」ことです。
神の言葉に基づく本当の信仰は、「きのうも今日もいつも変わることのないイエス・キリストを信じる信仰」です。時代がめまぐるしく変わり、人間の知恵、科学が驚くほど発達し、移り変わっています。
しかし、聖書の教え、救いの福音は変わることがありません。今朝も私たちは心を合わせて「使徒信条」を告白しました。2000年の間、変わることなく同じ信仰を告白し、それを受け継ぎ、また次の世代に信仰継承するのです。絶えず「キリストの福音」を正しく受け止め、救いの恵みを確認していきましょう。

2.霊的な祭壇
「私たちには一つの祭壇があります。」と語ります。(10節)
神の救いの御業は「神の一方的な恵みによる」と語るヘブル書の著者は、「神の恵みの中に生きる姿」に私たちの目を向けさせます。
旧約時代、人間の罪の身代わりとして祭壇に犠牲の動物が捧げられました。それが「神に近づく型」とされたのです。
ヘブル書は繰り返し「贖い主イエス・キリスト」が私たちの罪のため十字架
上で死んでくださったと宣言します。この十字架こそ、私たちが恵みを受ける「祭壇」です。私たちは、イエス様の十字架のもとに罪を告白し、罪赦され、愛と平安と喜びにより確かな道へ導かれます。私たちの祭壇である十字架は、家庭で、職場、学校、あるいは旅先で・・心を向ける何処でも十字架があって、  
主に祈り、主に近づき、主を仰ぎ見るのです。これが私たちの特権です。
さて11節「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。」
これはレビ記に記されている事柄で、旧約時代、イスラエルの民が年に1度、贖いの日に行っていたことを指しています。イスラエルの民全ての罪が、牛、ヤギに背負わされ、その動物はほふられました。そして大祭司は1年に1度その日だけ、その動物の血を携えて聖所の奥の至聖所に入ります。そしてこの血を契約の箱の贖いの蓋に注いで罪の赦しを祈るのです。その贖罪の日の動物の肉は、最も汚れたもの、呪われたものとして全てを焼き尽くされました。
この贖いの日の儀式は、イエス様が成就した救いの御業の予表・型です。その型の通りに、イエス様はエルサレムの城壁の外側の「どくろ」と呼ばれる丘の上で十字架に付けられました。
12節「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けた」。贖罪の日に動物の血が流されたように、私たちの罪のためにご自身の血を流されました。そしていけにえの動物が汚れたものとされたように、呪われた者として門の外に追放され、十字架にかけられたのです。
「救い」は私たちが自分で獲得するものではありません。イエス様の恵みによるもので、信仰者の拠り所はキリストの十字架だけなのです。その祭壇は、ただ恵みによって神に近づくことです。神を礼拝する神の民とされているとの信仰に立つことが、「霊的な祭壇」です。  

3.信仰をもって将来を見据える
私たちはイエス様の十字架の贖いによって、神を礼拝する者とされ、この地上で罪の赦しをいただき、キリスト者としての歩みが与えられています。
永遠の都は確かに約束され、神の子とされ、見捨てられることもありません。助け主、聖霊なる神様が信じる者の心に宿っています。
「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。」(マタイ6:24)とイエス様は語っています。
私たちは自分の思いを満たすのでなく、キリストの十字架を背負い、キリストと共に、世からそしりを受ける歩みを選び取るのです。私たちが求めるべきものがこの世の楽園にはないからです。
14節に私たちが、求めるべきものは後にこようとしている「永遠の都」であると語ります。それは、完全に世が取り去られ、神のご支配が完成し、神の義と愛に満ち溢れている所、・・キリスト者の安住の地です。
人間の肉の思いは、目に見えるこの地上の楽園ですが、現実には永遠ではなく、やがて過ぎ去るものです。
自分の十字架を負い、キリストに従う歩みだけが、「永遠の都」に通じる道です。ですから私たちは、この地上の人生がすべてという生き方をしません。むしろ後に来る都に希望を抱いています。「地上では旅人、寄留者である」と言い(11:13)、その生き方に将来を見据える信仰が働くのです。
イエス様は山上の説教で「天の御国はあなたがたのもの」と語っています。
そこに心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者等々、八つの幸いな人が登場します。地上の富や名声、家柄と無縁であり、逆の生き方です。この世で消え去るものから切り離され、永遠に続く、神と人との関わりに生きる「天の御国」の祝福に生きるのです。未来を見据え、天に宝を貯える信仰生活です。
「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4:16)

© 2024 日本同盟基督教団 北赤羽キリスト教会 公式HP Powered by AFFINGER5