私たちにとってイエス様は偉大な大祭司であられます。
1.大祭司となるために
旧約聖書の時代、大祭司は神と人との架け橋の役目を果たしていました。大祭司は、まず人々の中から選ばれます。天の御使いは大祭司になれません。2番目に大祭司は、無知で迷っている人々を思いやることが出来ます。自分自身も弱さを身にまとっているので(2節)とあります。大祭司も決して立派な人ではなく、同じ弱さをもっており、他の人を思いやることができる存在です。3番目に、神から召されて、その働きに携わることができます。私たちにとって偉大な大祭司であられるイエス様も、大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」(5節)と語られる天の父なる神から任命され、召されて大祭司の立場に立たれたとヘブル書の記者は語ります。すべての大祭司にまさって偉大であられます。
2.キリストの模範
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(7節)
イエス様は人としてこの世におられたとき、人類の歴史を身をもって体験されました。いつも大きな叫びと願いを捧げておられます。
十字架を目の前に、ゲッセマネの園でのイエス様のお姿です。マタイは、苦しみ悶え、祈るイエス様を見ております。医者ルカは、苦しみ悶えて祈られるイエス様から汗が血のように滴り落ちたことを観察しています。ヘブル書は「その敬虔のゆえに聞き入れられた」と語ります。ゲッセマネの園で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしからすぎさらせてください」と祈り叫ばれたのです。ここに私たちの罪を背負って十字架上で人に捨てられ、父なる神に捨てられ呪われ、犠牲となられる苦しみの杯、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、3度も身を悶えながら祈られ、・・「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころがなるように」と、ここに聞き入れられる祈りの模範を見るのです。自分の思いを神様に押し付けておりません。私たちが神に信頼して委ねることです。「敬虔」とは、祈り、明け渡し、委ねる信仰です。
「祈り 明け渡し 委ねる信仰」 ヘブル5章1~10節