戦後70年を前に、今朝の礼拝「イエスは主」と信仰告白を再確認します。
1.旧い契約の限界
ここに旧約聖書の幕屋と聖所が取り上げられています。旧い契約の規定では地上に幕屋を建設、神への礼拝がささげられたのです。この幕屋が当時の人々への比喩であって、この時代の人々に指し示された「救いのための設計図、青写真」であったのです。旧約時代、幕屋は罪に汚れた人間が聖なる神と出会う場所とされたのです。この幕屋は、私たちの罪を贖うため犠牲となられたイエス様を現わしています。大祭司として神と人との関係を回復されたイエス様の姿そのものです。まさに新約において、十字架上で体を裂かれて、完全ないけにえとして罪を贖って下さったお方です。イエス様が十字架上で死なれたその時、至聖所を隔てていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂かれたと驚くべき事実が聖書に記されています。(マタイ27:51)
2.開かれた聖所
.旧約時代、祭司だけが聖所に入ることができ、大祭司だけが年に一度、贖いの日に至聖所に入ることが許されていました。至聖所は神の臨在する聖なる場所です。
これによって「聖霊は、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は開かれていない」と語ります。この至聖所を隔てている第二の垂れ幕は、人が神の御前に近付く道は開かれていないということを告げる象徴でした。そこに大祭司イエス様が来られ、はじめて神と人とを隔てていた障害物が取り除かれたのです。イエス様の贖いによって、すべての人を神に近付かせる道が完全に開かれたのです。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたーこれによって、神と私たちを隔てていた仕切りが取り払われたのです。生ける真の神に近づくことができるようになったのです。聖書は血を流すことなしに、罪の赦しはないと語ります。イエス様が私たちの身代わりに十字架の死をもって、責任を取ってくださったのです。
「新しい生ける道」 ヘブル9章1~10節